2013年7月9日火曜日

久慈賞

��月12日からいよいよ都市対抗が開幕します。
社会人野球に携わる者にとってはワクワクする期間が始まります。
郷土の代表、企業の威信をかけた戦いは、プロ野球、大学野球、高校野球と違った野球の存在を見ることができます。

真夏に開催されている大会ではありますが、空調の効いたドームの中で行われるため、見る側、プレーをする側にも有難い大会であり、また環境に左右されないため、まさしくガチンコの戦いが繰り広げられます。

私も現役時代は、この東京ドームでプレーした経験がありますが、体力面の披露も少なく、プレーに集中できたように思います。但し、乱視などのハンデを抱える人は、ボールがぼやけるかもしれませんね。あの白いテント屋根は昼間はフライが本当に見えない・・・。

幸いなことに、1991年には、運良く決勝まで駒を進めることができ、敢闘賞にあたる久慈賞を個人表彰として授与して戴きました。心技体が充実した時期で、おそらく競技ピークを迎えていたのでしょう。

そんなことを回想しながら、改めて久慈賞についてもう一度勉強しようと思って、久慈 次郎さんを検索、ウィキペディアを見たところ次の表記がありましたので、原文のままご紹介します。

久慈賞の制定は、1947年(第18回大会)からでそうで、今まで数多くの受賞者がいます。しかし、大会毎に橋戸賞と久慈賞は一人しか受賞することなく、改めて受賞できたことへの感謝の念を持つことと共に久慈賞に恥じないような野球人生を送らねばと決する次第です。

しかし、このような実直な生き方は、私にはハードルが高いかな!

久慈 次郎

岩手県盛岡市出身(青森県青森市生まれ)。
盛岡中学を卒業後、早稲田大学に進学し、在学中から持ち前の強肩とリーダーシップを発揮。
また、野球部監督の飛田穂洲に心酔し、「一球入魂」を座右の銘としていた。大学卒業後は北海道函館市の函館水電に入社、同社に務めつつ函館太洋倶楽部(函館オーシャン)でプレー、永く函館に在住した。1927年には函館水電を退社し、クジ運動具店を開業。店主として10人近くの従業員を雇う企業家としても活躍。
1934年にアメリカ選抜チームが来日するために結成された全日本チームに招聘された久慈は、全日本のエースであった沢村栄治とバッテリーを組み、アメリカ選抜チームを苦戦させた。ちなみにアメリカチームを1失点に抑えた静岡草薙球場での一戦においてその1点となるルー・ゲーリッグの本塁打の球は、その試合で初めて沢村が久慈のサインに首を振ったものであったが、直後に久慈がマウンドに向かって沢村と相談しており、最終的にどちらの意図する投球であったかは現在になってもわかっていない。

同年、全日本チームを核として職業(プロ)野球チーム:大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍)結成するにあたり、選手・主将としての参加を要請された[1]が、参加を辞退(久慈の辞退により、正式な初代主将には二出川延明が就任した。ただし、記録上では主将として久慈の名前が残っている)。アマチュア野球の発展に貢献しようとした。これには理由があり、同年3月に函館を襲った大火、函館大火により市が壊滅的なダメージを受けており、函館を離れようという踏ん切りがつかなかったためである。函館太洋倶楽部はこの年の都市対抗野球大会(第8回大会)の出場権を得ていたが、これを辞退した。この年、函館市議会に欠員が生じたため、日米野球の函館開催に尽力し、函館復興に心血を注いだ久慈を政治の場に、との声が上がる。本人は「議員なんて似つかわしくない」と発言しており、積極的な選挙活動は一切行わなかったが、トップ当選で函館市議となった。函館市議会員としての久慈の功績として、野球場やテニスコート、スキージャンプ台を兼ね揃えた函館市民運動場の設計がある(ただし、完成したのは久慈の死後であった。1954年に廃止され、現在は函館市立潮見中学校の敷地となっている)。

1939年8月19日、選手兼任監督として札幌市円山球場での札幌倶楽部[2]との試合に臨み、久慈は5回の守備からファーストに着いていた。1-2とリードされて迎えた7回、四球で一塁に歩く際、ホームベース上で次の打者に指示を与えようと振り向いた瞬間、走者が飛び出した二塁に向けて投げられた相手捕手の牽制球が右のこめかみを直撃、ホームベース上に倒れ込みそのまま動かず、そのまま市立札幌病院に運ばれたが2日後、頭蓋骨破損による脳出血でついに帰らぬ人となった。久慈の棺を乗せた列車は札幌から函館に向かったが、停車駅ごとに熱烈な野球ファンが駅に詰めかけて、久慈の死を惜しんだといわれている。久慈の墓は函館市の小高い丘の上に立てられ、その形はボールをかたどったものとなっている。



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