前回、医科学分野の現場への導入加速をテーマに話をしましたが、今回は「現場での練習において気をつけるべき」と考えていることについて、雑感を記載します。
最近、体罰問題などによって、今まで行なわれていたスポーツの指導についてあまり良くないような捉えられ方をされている風潮にあるように感じます。
確かに経験主義的な指導には問題があるとは思いますが、本当にそうなのかというのはしっかりと検証する必要があると思います。
暴力や過度のパワハラについては、絶対に根絶しなければならないと思っていますが、「厳しさ」と「行き過ぎた指導」の境界線を引きことは、非常に難しいと考えます。
それに類して、文部科学省がスポーツ指導のガイドラインを作成しているようですが、競技のレベルをどのぐらいにおいて作成するかにより、現場で使えるかどうかが大きく変わると思います。
おそらくそれなりの方がガイドライン作成には携わっているので、変な方向に行くことはないと思いますが・・・。
一方、最近の野球界では、長嶋さんや王さんのようなスーパースター、卓越した選手は今の時代には産まれてこないのかなとなんてふと思うときがあります。
時代が変わり、環境が変わり、昔と呼ばれる時代の選手の野武士的な要素は現代の選手には影もありません。
話は変わりますが、社会人野球においても同じ現象が起こっているなと時代の流れを感じています。昔(我々より)の選手は、遠征と聞けば、こぞって盛り場に行くのを一つの楽しみにしていました。
試合前にも拘らず、良く飲みすぎたなんてことをやっていました。
勿論、野球の技術の話で激論になることもしばしば・・・。
「飲んだ次の日の試合で、二日酔いのような気を抜いたプレーをするな」と良く先輩から教えを受けたものです。
しかし、最近の選手は、稀に飲みに行く選手もいるのでしょうが、殆どがテレビゲームか携帯をいじって部屋にこもっている。
管理する側からすると楽で仕方がないですが、勝負師が、これで本当に育つのかなと不安も覚えます。
それにも増して、チームスポーツに関わっていながら、いつコミュニケーションをとるのか、いつ野球の技術の話をするのかと他人とのかかわりの重要さに気づいていないことが大きな問題であると思っています。
別に酒飲みに行くことがその解決策ではないことは十分理解をしていますが、もっと横の人間と本音で話をできるようにしていかなければ本質の野球が変わっていってしまうと思っています。
またいつものように話が別の方向に向かってしまいましたので、軌道修正をして、これから上記のようなことを踏まえながら練習についての考えを述べます。
今、東大野球部を教えている桑田さんが、「練習は正しい方法で合理的にやれば必ず効果があがる」と良く色々なところで話をされています。
全くそのとおりであると共感します。
が、少しこれまでの野球に携わった経験から別の視点もあると考えています。
正しい方法(基本、技術)で練習を進めないと間違いなく、悪い方向へ進んでいくことは誰もわかること。
しかし、指導者が一番困るのが合理的という一言で練習を片付けられること。
チームの環境、チームのレベル、構成要員、指導体制によって、合理的な内容が変わってしまうからです。
また、「合理的とは」と問われたときに、それに対する明確な応えがない。特にスポーツの指導においては、反復練習は不可欠であり、その適量を示すことが非常に難しい。
例えば、「投げ込み」という言葉、これも反復練習の一つ。
プロ野球キャンプの報道で、一日300球の投げ込みを行いましたなどと放映されていることがあるが、「投げ込み」という練習の目的そのものが良くわからない。
スタミナを作っているの?
技術的な追求をしているの?
精神的な充実感?・・・。
投球管理をしっかりされているメジャーでは、先ずこの時期に馬鹿みたいに投げている投手は絶対にいません。
メジャー選手は、おそらく馬鹿げていると嘆くでしょう。
しかし、この練習方法は、過去の経験から得た日本独自のやり方なんです。
これで成功している選手がいるから一概に否定はできない。
ここらあたりもスポーツ科学が入り込んで解明すればよいと思います。
「投げ込み」によって「肩をつくる」ということがどのような科学的根拠に基づき成り立っているのか? 面白いと思いませんか?
昔、千葉ロッテでバレンタイン監督が指揮をとった時期がありましたが、彼は、1,000本ノックなど意味がないと1年目にメジャー式キャンプを取り入れ、量より質を重んじた練習に切り替え、見事シーズンでは失敗しました。
小さい頃から練習、練習によって培ってきた日本選手には、練習をしないことによる不安を消し去ることは出来なかったのではないかと思います。
逆に小さい頃から適度な量程度で育てられた選手がどれぐらい伸びているかも検証しても良いかと思います。
余談ですが、今ではバレンタインは日本的なやり方を多くメジャーに導入しているようです。
練習には、大きく3つの目標があります。言わずとしれた「心、技、体」です。
アマチュアの指導者の殆どが、この中でも心を育てることが先ずは重要と話されます。
話して聞かせて心が育つのであれば、指導者としてはこれほど楽なことはないのですが、そうではないということを指導者の皆さんはご存知です。
コミュニケーションだけでは、人の本当の心の強さ育ちません。
本人が体感し、自分のものとして受け止めることができたときに初めて心が育つと私は思っています。
そのためには、時には苦しい環境に追い込まれることも必要でしょう。
体力的にも、精神的にも追い込まれたときに人は力を発揮することもあります。
そのような極限の状態で技を体得することがあるというのは、格闘技系のスポーツでは良くあることです。
私は、チームが都市対抗予選などで負け落ち込んだ状況での練習再開の初日に、長距離(25km)を走らせるような手法をとります。
これは、「自分を見つめなおすこと」、「歩きたいという自分自身と戦いに勝つ」を目的として走らせており、決して負けた罰としての想いではありません。
この走る前には、「今日の練習は非合理的な、無意味な練習になるかもしれない。だけどいつかこの日がいい練習ができた日であったと思えるかもしれない」と送り出します。
勿論、負けた責任として監督自ら一緒に走ります。
とりとめもない記事となっていますが、言わんとするニュアンスは伝わったでしょうか?文才無く、ご勘弁を。
指導者が選手のためを想い、一生懸命考え行なった練習に対して色々な人が批評をすることこそがナンセンスですし、指導者も合理的な練習を追求することに執着することに無理があると思います。
無駄な練習といえるようなことが実は以後の競技経験につながったなんてことは山ほどあります。
一番選手の特性を把握しているのは、そこにいる現場指導者なのです。
反復、継続は力なり。技術は、忍耐強い精神力とそれを続ける体力なくして進歩なしです。
但し、今一度、指導者の方は、今の練習のやり方について立ち返ることをお勧めします。
次回も頑張ります。