プロ野球ではキャンプ前の自主トレが行なわれていますが、アマチュアの場合は、シーズン前の体力トレーニングが行なわれていることと思います。
実は、オフシーズンで鍛えた体を野球で使えるからだに変えていく、これからの時期(2月-3月)は非常に重要になります。
ウエイトトレーニングなど負荷をかけて作り上げた筋肉をスピードと柔軟性に変えていくということでしょうか?
このジョイントの時期は、特にプライオメトリクストレーニングのように自分のからだを負荷としたトレーニング、クイックネスに代表されるようなスピードトレーニングなどを行なうことでスムーズにシーズンに移ることができます。
プライオメトリクスの種目としては、主にジャンプ系となるのですが、地面に接地する時間を短くし、次の試技に以下に移れるかというところに主眼をおかなくてはいけません。
したがって、反復回数を追うのではなく、フォームが崩れだしたところが本人の限界と割り切らなければなりません。反応系トレーニング効果は、反復回数に比例するものではないので、量を追っても効果は上がらないということになります。疲労の取れた状態で神経を研ぎ澄ませて、速くからだを使いこなすことだけに集中させ、短時間で切り上げるぐらいがいいでしょう。
したがって、練習が終って行なうよりもウォーミングアップが終った次の練習項目で行うと効果があがると思います。
クイックネスについては、毎日行なっても全く問題ありませんが、一番肝心なのは、フォームだと思います。
よくラダートレーニングをする光景を目にしますが、足をマスに入れることに集中しすぎる余り、本来の目的である「地面を強く押す」ということができず、フォームも崩れているケースが多いように思います。これでは、単なるマスゲームとなり、効果は全く上がらないと思います。
よくスタートダッシュの1歩目が大事というようにどこに意識を持っていくかで、そのトレーニングの効果は大きく変わっていくものです。
ラダートレーニングを野球に最初に導入したのは、私ではないかと思います。
ランディー・スマイスが設立したクレーマー社に英文メールを送り、ラダーとその使い方ビデオを送ってもらって自チーム選手にやらせたことがはじめではと思っています。
導入した頃は、選手も目的意識をしっかりと持ち取組んでくれていましたが、次第には速さを追求することに執着し、結局上述のようなマスゲームになってしまっていました。
このような用具を使う際には、指導者が繰り返し、目的を選手に対して伝えていくことが大きなポイントかと思います。全ての練習にいえることですが・・・。
シーズンオフにでかくなったからだを如何に使いこなすか、その変化したからだを脳が理解し、神経を通じて正しく指令を出すかという方向に仕向けていくためにこの時期のトレーニングは非常に重要といえるでしょう。
2013年1月30日水曜日
2013年1月28日月曜日
メンタルトレーニング
なぜ体罰が起きるのかという問題が社会現象となり、連日、スポーツもやったことがない、指導がどのようなものかも分からないような方が熱く語っていることを滑稽に観ています。
スポーツ技術を習得するためには心(自己自立)が育っていなければならいということを特に強いチームの指導者は良く分かっておられます。
本当に一流の選手を育成する過程では、「逆境に強い心を保有する選手であるべし」と精神的に追い込むようなことを行ないます。その結果が、一連の行き過ぎた指導になるのです。
精神的な脅威を与え、自然と追い込まれた環境を作るために体罰を繰り返す。方法論としては、それも一つになるのですが、その結果、競技からのバーンアウト(離脱)を招く怖れは高くなると思いますし、自立した選手は出てきません。
野球界でも名門の厳しい高校を出た選手が大学や社会人に行ってから「伸びない」というようなことをよく聞きますが、いつもやらされているような環境から急に自立を求めれた瞬間にどう対処していけば良いのかコントロールできない事態に陥っているのではと推察されます。
結局、スポーツは、メンタルなのだと思います。今の自分を知り、なりたい将来像にどのように向かっていくかを教えるのが指導なのですよね。
「心」「技」「体」言葉ではこの順番ですが、心なくして成長なし、体力なくして技術の習得はないことを考えれば、技術の習得の前に何をやらなければ分かりますよね。
前置きが長くなりましたが、今日は、前段の話を踏まえて、メンタルトレーニングについて私見を記載します。
メンタルを強化するということは指導者にとっての永遠のテーマです。
私もメンタルトレーニングなるものを社会人時代にチームに取り入れ、大学の先生の指導も選手に受講させたこともあります。
「効果は上がったのか?」と問われれば、メンタル面の効果が出たかどうかというそもそも評価が難しいのですが、少なくとも自己分析を選手がやる癖がついたという点では、有効な手段であったといえると思います。
メンタルの強化というのは、苦しい局面で逃げなくなったとか、日常の練習への計画的、意欲的な取組みに表れるように意識の向上のことを言っているのであり、それによって、試合に勝ったとなど直接的な要因と結論づけるのは更に難しいと思います。
メンタルトレーニングで求める最大の目的は、客観的に自己分析を行えるようになり、難しい局面などでしっかり自分のパフォーマンスレベルを発揮することへ繋げることではないかと考えています。
メンタルトレーニングをやればメンタルが強化されるのではなく、メンタルトレーニングを通じて選手自身が「変わっていきたい」と強く思うことが肝心であると思います。
したがって、メンタルトレーニングを行なったからといって直ぐにメンタル面が強くなることは無く、強くするための方法を習ったという程度と考えた方が良いでしょう。
私の経験から言うとメンタル面にて選手に必要なことは、プレーヤーは、「その瞬間にどのような精神状態でプレーを行なったのか」、「その判断が正しかったのか」ということを絶えず自問自答することが重要です。もし、間違っていたらば、同じ場面に遭遇した際には、同じ過ちをしないように日頃から準備をしておくことが良いプレーヤーになる条件であると思います。
メンタルは日々の厳しい練習にこそ育ち、難しい局面に試合で遭遇するたびに強くなっていきます。
メンタルトレーニングは、選手一人でやるものであり、周囲に合わせる必要はなく、まして指導者の顔色伺って行なうものではないのです。
正しい目標を設定し、それに向かって粘り強く着実に進めていく、試合では、今までやってきたことを十分に発揮することに執着する。これを進める手段がメンタルトレーニングです。
以前の記事でも記載をしましたが、目標の設定と自己実現までの計画は非常に重要なメンタルトレーニングの指標となります。
先ずは、明確な目標、なりたい自分を描がけないとメンタルトレーニングを行なっても意味がありません。
意外と盲点ですが、多くの選手が実はここで悩んでいます。
そのことを指導者は知る必要があります。一方的に目標を押し付けているからお互いの間に溝ができてしまうものです。
東京オリンピックの東洋の魔女と呼ばれた女子バレーチームを振り返る番組を先日観ましたが、あれだけ壮絶な練習にも耐えられた選手、あれだけの練習をやらせた指導者との絆は、「オリンピックで金メダルしかない」という人生をかけてもいいという明確な強い想いから生まれているのだなと関心させられました。
指導者も人間です。過ちがあってはならぬという風潮が出来上がるのが怖いのですが、指導者と選手で本当の意味で目標を共有できていれば、多少の理不尽なこともお互いに耐えることができます。体罰を容認しているわけではありませんので誤解なきように・・・。
もっと具体的なメンタルトレーニングの手法が記載されているのではとご期待された方には大変申し訳ございません。
メンタルトレーニングは、あくまでトレーニングですので、技術練習と同じように意識して強くして行こうを思うことが重要です。
スポーツ技術を習得するためには心(自己自立)が育っていなければならいということを特に強いチームの指導者は良く分かっておられます。
本当に一流の選手を育成する過程では、「逆境に強い心を保有する選手であるべし」と精神的に追い込むようなことを行ないます。その結果が、一連の行き過ぎた指導になるのです。
精神的な脅威を与え、自然と追い込まれた環境を作るために体罰を繰り返す。方法論としては、それも一つになるのですが、その結果、競技からのバーンアウト(離脱)を招く怖れは高くなると思いますし、自立した選手は出てきません。
野球界でも名門の厳しい高校を出た選手が大学や社会人に行ってから「伸びない」というようなことをよく聞きますが、いつもやらされているような環境から急に自立を求めれた瞬間にどう対処していけば良いのかコントロールできない事態に陥っているのではと推察されます。
結局、スポーツは、メンタルなのだと思います。今の自分を知り、なりたい将来像にどのように向かっていくかを教えるのが指導なのですよね。
「心」「技」「体」言葉ではこの順番ですが、心なくして成長なし、体力なくして技術の習得はないことを考えれば、技術の習得の前に何をやらなければ分かりますよね。
前置きが長くなりましたが、今日は、前段の話を踏まえて、メンタルトレーニングについて私見を記載します。
メンタルを強化するということは指導者にとっての永遠のテーマです。
私もメンタルトレーニングなるものを社会人時代にチームに取り入れ、大学の先生の指導も選手に受講させたこともあります。
「効果は上がったのか?」と問われれば、メンタル面の効果が出たかどうかというそもそも評価が難しいのですが、少なくとも自己分析を選手がやる癖がついたという点では、有効な手段であったといえると思います。
メンタルの強化というのは、苦しい局面で逃げなくなったとか、日常の練習への計画的、意欲的な取組みに表れるように意識の向上のことを言っているのであり、それによって、試合に勝ったとなど直接的な要因と結論づけるのは更に難しいと思います。
メンタルトレーニングで求める最大の目的は、客観的に自己分析を行えるようになり、難しい局面などでしっかり自分のパフォーマンスレベルを発揮することへ繋げることではないかと考えています。
メンタルトレーニングをやればメンタルが強化されるのではなく、メンタルトレーニングを通じて選手自身が「変わっていきたい」と強く思うことが肝心であると思います。
したがって、メンタルトレーニングを行なったからといって直ぐにメンタル面が強くなることは無く、強くするための方法を習ったという程度と考えた方が良いでしょう。
私の経験から言うとメンタル面にて選手に必要なことは、プレーヤーは、「その瞬間にどのような精神状態でプレーを行なったのか」、「その判断が正しかったのか」ということを絶えず自問自答することが重要です。もし、間違っていたらば、同じ場面に遭遇した際には、同じ過ちをしないように日頃から準備をしておくことが良いプレーヤーになる条件であると思います。
メンタルは日々の厳しい練習にこそ育ち、難しい局面に試合で遭遇するたびに強くなっていきます。
メンタルトレーニングは、選手一人でやるものであり、周囲に合わせる必要はなく、まして指導者の顔色伺って行なうものではないのです。
正しい目標を設定し、それに向かって粘り強く着実に進めていく、試合では、今までやってきたことを十分に発揮することに執着する。これを進める手段がメンタルトレーニングです。
以前の記事でも記載をしましたが、目標の設定と自己実現までの計画は非常に重要なメンタルトレーニングの指標となります。
先ずは、明確な目標、なりたい自分を描がけないとメンタルトレーニングを行なっても意味がありません。
意外と盲点ですが、多くの選手が実はここで悩んでいます。
そのことを指導者は知る必要があります。一方的に目標を押し付けているからお互いの間に溝ができてしまうものです。
東京オリンピックの東洋の魔女と呼ばれた女子バレーチームを振り返る番組を先日観ましたが、あれだけ壮絶な練習にも耐えられた選手、あれだけの練習をやらせた指導者との絆は、「オリンピックで金メダルしかない」という人生をかけてもいいという明確な強い想いから生まれているのだなと関心させられました。
指導者も人間です。過ちがあってはならぬという風潮が出来上がるのが怖いのですが、指導者と選手で本当の意味で目標を共有できていれば、多少の理不尽なこともお互いに耐えることができます。体罰を容認しているわけではありませんので誤解なきように・・・。
もっと具体的なメンタルトレーニングの手法が記載されているのではとご期待された方には大変申し訳ございません。
メンタルトレーニングは、あくまでトレーニングですので、技術練習と同じように意識して強くして行こうを思うことが重要です。
2013年1月24日木曜日
過剰な指導について
大阪で起きた体罰が起因となった生徒の自殺の問題、入試制度のあり方などで話しが刷り変わってきていますが、「そもそも何故体罰が起きるのか?」「何故、行き過ぎた指導が行われるのか?」など抜本的な問題には誰も踏み込まれていません。
この男子生徒が訴えたものは、単にこの学校へのメッセージとして受け取るのではなく、スポーツ界の問題だと国レベルで考える必要があると思います。
ジュニア期(小学校-高校レベル)の情緒不安定な時期における目に余る指導者の過剰行為を幾度となく、私も目の辺りにしていますが、なぜこのような指導になるのかと本当に疑問を持ちます。
少なくともジュニア期では、スポーツを通じて健全な精神を養うということが重要なのに対して、体罰などが必要なのかという思いがあります。
私も大学時代に先輩の方々から数多くお説教を受け、その一連で殴られた思い出があります。昔のスポーツ界は一種当たり前の出来事であったと思います。おそらく生意気だったから厳しさを教えておかなければならないとの想いで殴られていたと思いますが、殴られた方は、どちらかというと「この野郎」という気持ちが強く、「殴ってもらってありがとうございました。」などという冷静な気持ちにはなれません。
時間が立てば笑い話にはなるのですが。
では、なぜ手を出してしまうのか?
手を出す行為事態は、自分の怒りの感情を抑えきれなくなり、本能的に手が出てしまうことが多いと思います。指導をしている最中に、相手(選手)が気にいらいない態度などとると怒りが納まらなくなってしまい、つい手が出てしまうというパターンが殆どです。手を出した後は、誰でも「しまった。殴る必要はなかった!」と反省の念に囚われるものです。
さて話を戻しますが、「ジュニア期になぜ行き過ぎた指導になるのか?」という本質的な原因については、過剰な勝利評価の高さが全てであると思います。高校生の全国大会一回戦から全国テレビ放映される国は、日本しかないといっても過言ではないと思います。アメリカで高校生の大会が全国放映されるのは決勝戦ぐらい程度で、極めて稀であると思います。競技レベルが低すぎて放映に値しないということだと思います。
一方、「青春」「感動」に価値を置く日本人には、競技のレベルよりもその取組む真摯的な姿勢にスポーツの価値を見出しているため、純粋な気持ちでプレーを行なう高校スポーツが受け入れられるのでしょう。最たる例が、高校野球であると思います。
日本におけるスポーツの普及の歴史(外国への敵対)が、日本のスポーツ文化となってしまっているから仕方がありませんが・・・。
また、一重にマスコミの過剰反応が、ジュニア期の勝利至上主義をあおっていることは間違いありません。もう少し、美辞麗句だけを並べるのではなく、しっかりとした批評をしてもらいたいものです。
このように、勝利をさせること=良い指導者の構図が出来上がっている以上、中々過剰な指導の体質はなくならないと思います。正直、選手の自覚を待つよりも、押さえつけてやらせた方が手っ取り早く、早く結果(試合に勝つ)が出しやすい。ましてや成長過程にあるジュニア期の子供に自覚を促すのは、かなり難しいことであるので、どうしても一方的な指示命令型のマネジメントになり勝ちです。
では、何か策は無いのか問われれば、即効性のあるアイディアは、以下二つかと考えています。一つは、ライセンス制度の導入。二つ目は、NCAAのようなルールを作り、観察員をおくこと。
高校野球がプロ経験者を受け入れることが決まったように、これからのスポーツは、学校体育の範疇ではなくなり、より専門的なクラブ化に移行されていくと考えています。そのような時代を想定した場合にしっかりとした教育を行なうことが非常に重要になります。
その第一関門がライセンス制度であると思います。ジュニア期からトップまでサッカー界が行なっているような制度をスポーツ界全体で行なわなければなりません。逆に指導のライセンス制度を導入できなかったスポーツ種目は、淘汰されていくぐらいの強い覚悟でのぞまなければなりません。
一方、ライセンスどおりに指導が行われているかを監視するものがNCAAのようなルールです。例えば、高校バスケットのシーズンは、10月-8月とか、高校野球の平日の練習時間は、夜8時までなど決め事を作ってしまうこと。
そのルールを監視するような専門的な組織および人員を配置して、全国巡回し、ランダムに学校を監査すればよいと思います。そうすれば、指導の実態もしっかり把握でき、今回のようなこと未然に防ぐことができます。もしルールを違反するような指導が行われていれば、予め準備されたルールで処分を行なえば良いのです。
ジュニア期の本文は、学業とスポーツの両立です。
文部科学省がちゃんと旗振りをして、この問題を重大問題としてスポーツ界全体で議論されることを切に望みます。
亡くなられた生徒のご冥福をお祈りするとともにスポーツに携わる一人として、今後このような痛ましいことが起きないように今回のメッセージを肝に銘じ、行動していこうと思います。
野球界がその先導にたって戴きたいと思いますし、野球界はそうあるべきだと強く思います。
これから色々な会議で積極的に発言させて頂くようにします。
この男子生徒が訴えたものは、単にこの学校へのメッセージとして受け取るのではなく、スポーツ界の問題だと国レベルで考える必要があると思います。
ジュニア期(小学校-高校レベル)の情緒不安定な時期における目に余る指導者の過剰行為を幾度となく、私も目の辺りにしていますが、なぜこのような指導になるのかと本当に疑問を持ちます。
少なくともジュニア期では、スポーツを通じて健全な精神を養うということが重要なのに対して、体罰などが必要なのかという思いがあります。
私も大学時代に先輩の方々から数多くお説教を受け、その一連で殴られた思い出があります。昔のスポーツ界は一種当たり前の出来事であったと思います。おそらく生意気だったから厳しさを教えておかなければならないとの想いで殴られていたと思いますが、殴られた方は、どちらかというと「この野郎」という気持ちが強く、「殴ってもらってありがとうございました。」などという冷静な気持ちにはなれません。
時間が立てば笑い話にはなるのですが。
では、なぜ手を出してしまうのか?
手を出す行為事態は、自分の怒りの感情を抑えきれなくなり、本能的に手が出てしまうことが多いと思います。指導をしている最中に、相手(選手)が気にいらいない態度などとると怒りが納まらなくなってしまい、つい手が出てしまうというパターンが殆どです。手を出した後は、誰でも「しまった。殴る必要はなかった!」と反省の念に囚われるものです。
さて話を戻しますが、「ジュニア期になぜ行き過ぎた指導になるのか?」という本質的な原因については、過剰な勝利評価の高さが全てであると思います。高校生の全国大会一回戦から全国テレビ放映される国は、日本しかないといっても過言ではないと思います。アメリカで高校生の大会が全国放映されるのは決勝戦ぐらい程度で、極めて稀であると思います。競技レベルが低すぎて放映に値しないということだと思います。
一方、「青春」「感動」に価値を置く日本人には、競技のレベルよりもその取組む真摯的な姿勢にスポーツの価値を見出しているため、純粋な気持ちでプレーを行なう高校スポーツが受け入れられるのでしょう。最たる例が、高校野球であると思います。
日本におけるスポーツの普及の歴史(外国への敵対)が、日本のスポーツ文化となってしまっているから仕方がありませんが・・・。
また、一重にマスコミの過剰反応が、ジュニア期の勝利至上主義をあおっていることは間違いありません。もう少し、美辞麗句だけを並べるのではなく、しっかりとした批評をしてもらいたいものです。
このように、勝利をさせること=良い指導者の構図が出来上がっている以上、中々過剰な指導の体質はなくならないと思います。正直、選手の自覚を待つよりも、押さえつけてやらせた方が手っ取り早く、早く結果(試合に勝つ)が出しやすい。ましてや成長過程にあるジュニア期の子供に自覚を促すのは、かなり難しいことであるので、どうしても一方的な指示命令型のマネジメントになり勝ちです。
では、何か策は無いのか問われれば、即効性のあるアイディアは、以下二つかと考えています。一つは、ライセンス制度の導入。二つ目は、NCAAのようなルールを作り、観察員をおくこと。
高校野球がプロ経験者を受け入れることが決まったように、これからのスポーツは、学校体育の範疇ではなくなり、より専門的なクラブ化に移行されていくと考えています。そのような時代を想定した場合にしっかりとした教育を行なうことが非常に重要になります。
その第一関門がライセンス制度であると思います。ジュニア期からトップまでサッカー界が行なっているような制度をスポーツ界全体で行なわなければなりません。逆に指導のライセンス制度を導入できなかったスポーツ種目は、淘汰されていくぐらいの強い覚悟でのぞまなければなりません。
一方、ライセンスどおりに指導が行われているかを監視するものがNCAAのようなルールです。例えば、高校バスケットのシーズンは、10月-8月とか、高校野球の平日の練習時間は、夜8時までなど決め事を作ってしまうこと。
そのルールを監視するような専門的な組織および人員を配置して、全国巡回し、ランダムに学校を監査すればよいと思います。そうすれば、指導の実態もしっかり把握でき、今回のようなこと未然に防ぐことができます。もしルールを違反するような指導が行われていれば、予め準備されたルールで処分を行なえば良いのです。
ジュニア期の本文は、学業とスポーツの両立です。
文部科学省がちゃんと旗振りをして、この問題を重大問題としてスポーツ界全体で議論されることを切に望みます。
亡くなられた生徒のご冥福をお祈りするとともにスポーツに携わる一人として、今後このような痛ましいことが起きないように今回のメッセージを肝に銘じ、行動していこうと思います。
野球界がその先導にたって戴きたいと思いますし、野球界はそうあるべきだと強く思います。
これから色々な会議で積極的に発言させて頂くようにします。
2013年1月18日金曜日
スポーツ科学の重要性
記事掲載が遅れ誠に申し訳ございません。
1月12日、13日熱海後楽園ホテルにて開催されました日本野球連盟主催の指導者研修会に参加してきました。
この研修会は、私が所属をしている競技力向上委員会のメインイベントの一つで、社会人野球の一年の始まりの位置づけとされており、ここで今年のスローガンを掲げ、全チームで社会人野球を盛り上げていこうと決意を一つにする場ともなっています。
社会人、クラブチームの監督及び指導者を対象として行なうもので、何十年と継続されています。
今回は、二日間に渡り、連盟からの報告事項や基調講演があり、指導者の方々には色々な動機づけのきっかけになったのではと思います。
この研修の中で、国際武道大学 神事助教授と早稲田大学 矢内教授より、科学的な野球技術の解説があったのですが、改めて科学と現場指導の融合の大切さを痛感しました。
例えば、右打者が右打ちを行なう場合、インパクトを迎えたときのバットの向きは、ヘッドの向きがライト方向を向くより、レフト方向を向いてインパクトを迎える方がより速度の速い打球となる。つまり、ライトに打つ場合は、インパクトを迎えるときにバットヘッドが手首の位置よりも後方にあるべきと思いがちですが、実は手首よりも前でボールのインパクトを迎えたほうが打球は飛ぶということになります。
これだけ聞くと「バットのヘッドがレフト方向に向いて、どうして打球が右方向に飛ぶの?」と平面的に見た感想となるのですが、バットは円形であり、且つ、バットをに傾きを加える(バットヘッドを下げる)ことにより、3次元的な打球角度が生まれ、バットヘッドは、レフト方向に向いていても、打球はライト方向に飛ぶことになります。
実は、私は、右方向にホームランを打つタイプであり、正にこのような感覚で打っていたように思います。思わず「なるほど」と頷いてしまったぐらいです。
指導をする際にも、インパクトのポイントは、通常内角が体より離れたところ(投手より)、外角が正対している前(ホームベースの外角、捕手寄り)、真ん中がその間とコースにより、ポイントが変わってくると教えるのが殆どなのに対し、私は、ポイントはホームベースに平行し、直線にある。寧ろアウトコースの方が、インコースよりも投手よりにポイントがあると指導をしています。
これを言うと殆どの指導者が、首をかしげるのですが、今回の講演を聞いて、漸く理屈を説明できるものが出たなと感激しました。
この例を発端に、現場で実際に指導する際の「感覚の世界」と「科学の世界」では、おそらく沢山の違いがあるはずで、それを一つ一つ分析する必要があり、一致させていくことが今後の課題となるはずです。
サッカーやバレーなど道具を使わないチームスポーツと比べ、野球は道具を使って行なうスポーツであり、身体的特性が非常に重要な要素であることは間違いありませんが、それ以上に道具の使いこなしというものが重要なファクターとなります。
試合に際してサッカー、バレーのように戦術が重要になるのに対し、野球は、どちらかというと1対1の勝負の方が勝敗のウエイトを占める競技であることから見ても、技術の研究は、益々行なっていく必要があります。
今までの基本理論や指導方法に疑念を抱かず、過去の経験だけで指導にあたる時代は終ったというのが現在のスポーツ界であり、このことに対し、取組みがちょっと遅れている野球界も襟を正して、積極的にやっていく必要があるなと考えます。
もっともっとこのような機会をつくっていくことが今後の使命なのかなとも思いました。
しかし、研修というのは、自分の意欲次第で受け取る情報の量は変わるものだなと改めて思いました。講師の皆様に感謝します。
1月12日、13日熱海後楽園ホテルにて開催されました日本野球連盟主催の指導者研修会に参加してきました。
この研修会は、私が所属をしている競技力向上委員会のメインイベントの一つで、社会人野球の一年の始まりの位置づけとされており、ここで今年のスローガンを掲げ、全チームで社会人野球を盛り上げていこうと決意を一つにする場ともなっています。
社会人、クラブチームの監督及び指導者を対象として行なうもので、何十年と継続されています。
今回は、二日間に渡り、連盟からの報告事項や基調講演があり、指導者の方々には色々な動機づけのきっかけになったのではと思います。
この研修の中で、国際武道大学 神事助教授と早稲田大学 矢内教授より、科学的な野球技術の解説があったのですが、改めて科学と現場指導の融合の大切さを痛感しました。
例えば、右打者が右打ちを行なう場合、インパクトを迎えたときのバットの向きは、ヘッドの向きがライト方向を向くより、レフト方向を向いてインパクトを迎える方がより速度の速い打球となる。つまり、ライトに打つ場合は、インパクトを迎えるときにバットヘッドが手首の位置よりも後方にあるべきと思いがちですが、実は手首よりも前でボールのインパクトを迎えたほうが打球は飛ぶということになります。
これだけ聞くと「バットのヘッドがレフト方向に向いて、どうして打球が右方向に飛ぶの?」と平面的に見た感想となるのですが、バットは円形であり、且つ、バットをに傾きを加える(バットヘッドを下げる)ことにより、3次元的な打球角度が生まれ、バットヘッドは、レフト方向に向いていても、打球はライト方向に飛ぶことになります。
実は、私は、右方向にホームランを打つタイプであり、正にこのような感覚で打っていたように思います。思わず「なるほど」と頷いてしまったぐらいです。
指導をする際にも、インパクトのポイントは、通常内角が体より離れたところ(投手より)、外角が正対している前(ホームベースの外角、捕手寄り)、真ん中がその間とコースにより、ポイントが変わってくると教えるのが殆どなのに対し、私は、ポイントはホームベースに平行し、直線にある。寧ろアウトコースの方が、インコースよりも投手よりにポイントがあると指導をしています。
これを言うと殆どの指導者が、首をかしげるのですが、今回の講演を聞いて、漸く理屈を説明できるものが出たなと感激しました。
この例を発端に、現場で実際に指導する際の「感覚の世界」と「科学の世界」では、おそらく沢山の違いがあるはずで、それを一つ一つ分析する必要があり、一致させていくことが今後の課題となるはずです。
サッカーやバレーなど道具を使わないチームスポーツと比べ、野球は道具を使って行なうスポーツであり、身体的特性が非常に重要な要素であることは間違いありませんが、それ以上に道具の使いこなしというものが重要なファクターとなります。
試合に際してサッカー、バレーのように戦術が重要になるのに対し、野球は、どちらかというと1対1の勝負の方が勝敗のウエイトを占める競技であることから見ても、技術の研究は、益々行なっていく必要があります。
今までの基本理論や指導方法に疑念を抱かず、過去の経験だけで指導にあたる時代は終ったというのが現在のスポーツ界であり、このことに対し、取組みがちょっと遅れている野球界も襟を正して、積極的にやっていく必要があるなと考えます。
もっともっとこのような機会をつくっていくことが今後の使命なのかなとも思いました。
しかし、研修というのは、自分の意欲次第で受け取る情報の量は変わるものだなと改めて思いました。講師の皆様に感謝します。
2013年1月4日金曜日
新年を迎えて~目標
明けましておめでとうございます。
旧年中は本ブログの運営にご協力賜り、誠にありがとうございました。
あまり参考にならない内容になっているかもしれませんが、少しでも皆様のお役に立てるように今年も余力ある限り、掲載アップしていきたいと思っておりますので、暖かい眼で見守って頂ければ幸甚です。
さて、新年にあたり第1回目に何を書こうかと思案しておりましたが、やはり正月ということもあり、目標というテーマで記載をしたいと思います。
この時期は、陸上特に駅伝が目白押しでありますが、この報道の中でいつも疑問に思うことがあります。「今年の目標は、10位です。」とか全国レベルの大会で出場校の監督が口に出されていますが、「なぜ戦う前から目標が1位ではないのか?」という素朴な疑問。
スポーツは競うことが目的のはずなのに試合する前から自分の格をなぜ下げるのか今ひとつ理解ができません。
「持ちタイムを想定するとこのぐらいの順位になる。陸上は大どんでん返しがないんですよ。」と陸上関係者からお叱りがくるのかもしれませんが・・・。
監督の目標は、10位ぐらいであっても選手には「優勝するぞ!」ぐらいの意気込みでやらなければ、選手は自分の与えられた以上の力は発揮しようとはしないのではないかと思います。
チームスポーツに育っている私であるから陸上のことをとやかく言う資格はありませんが、「一番になってやる、負けてなるものか」という意気込みが思いもよらない力を引き出すのではないかと私は信じています。
ジュニア期の選手の力の伸びは指導者の想像をはるかに超えることが頻繁にあります。一日で別人のような力を発揮することなど良くある話です。人間の可能性は無限大にあるとジュニア期の選手には話しをしたいです。1%でも可能性がある限り、その目標が高くとも挑戦すること自体が本来あるべき姿であると確信しています。
外国の選手の試合前のインタビューを聞いたりしていると殆どの選手が「周りは強敵ぞろいだが、俺が一番になります。ベストを尽くします」という内容の返答をしています。中には「あなたは到底勝てる力も持ち合わせていないでしょう」という選手さへも。
日本一とか、世界一とかたやすく出来るものではありませんが、参加している競技者全員にその資格はあるわけで、試合をする前から諦めて欲しくないというのが私見です。
本来の目標という話題とはかけ離れていますが、スポーツ競技を行なっているのであれば、常に目標は一番であってほしい。学校や地域を代表して参加するような大会であればなお更、負けて行った選手に対しての敬意も込めて、試合の結果がでるまでは「日本一、世界一になってきます」と強がりでも良いから発言して欲しいです。
年齢的な段階、おかれている状況によって目標の置きどころが違うことは十分理解しているつもりですが、敢えて頂点に立つという大きな目標を目指して欲しいと思います。
「それが世界で戦える選手が育つ」というこに繋がると思っています。
今年一年よろしくお願いします。
旧年中は本ブログの運営にご協力賜り、誠にありがとうございました。
あまり参考にならない内容になっているかもしれませんが、少しでも皆様のお役に立てるように今年も余力ある限り、掲載アップしていきたいと思っておりますので、暖かい眼で見守って頂ければ幸甚です。
さて、新年にあたり第1回目に何を書こうかと思案しておりましたが、やはり正月ということもあり、目標というテーマで記載をしたいと思います。
この時期は、陸上特に駅伝が目白押しでありますが、この報道の中でいつも疑問に思うことがあります。「今年の目標は、10位です。」とか全国レベルの大会で出場校の監督が口に出されていますが、「なぜ戦う前から目標が1位ではないのか?」という素朴な疑問。
スポーツは競うことが目的のはずなのに試合する前から自分の格をなぜ下げるのか今ひとつ理解ができません。
「持ちタイムを想定するとこのぐらいの順位になる。陸上は大どんでん返しがないんですよ。」と陸上関係者からお叱りがくるのかもしれませんが・・・。
監督の目標は、10位ぐらいであっても選手には「優勝するぞ!」ぐらいの意気込みでやらなければ、選手は自分の与えられた以上の力は発揮しようとはしないのではないかと思います。
チームスポーツに育っている私であるから陸上のことをとやかく言う資格はありませんが、「一番になってやる、負けてなるものか」という意気込みが思いもよらない力を引き出すのではないかと私は信じています。
ジュニア期の選手の力の伸びは指導者の想像をはるかに超えることが頻繁にあります。一日で別人のような力を発揮することなど良くある話です。人間の可能性は無限大にあるとジュニア期の選手には話しをしたいです。1%でも可能性がある限り、その目標が高くとも挑戦すること自体が本来あるべき姿であると確信しています。
外国の選手の試合前のインタビューを聞いたりしていると殆どの選手が「周りは強敵ぞろいだが、俺が一番になります。ベストを尽くします」という内容の返答をしています。中には「あなたは到底勝てる力も持ち合わせていないでしょう」という選手さへも。
日本一とか、世界一とかたやすく出来るものではありませんが、参加している競技者全員にその資格はあるわけで、試合をする前から諦めて欲しくないというのが私見です。
本来の目標という話題とはかけ離れていますが、スポーツ競技を行なっているのであれば、常に目標は一番であってほしい。学校や地域を代表して参加するような大会であればなお更、負けて行った選手に対しての敬意も込めて、試合の結果がでるまでは「日本一、世界一になってきます」と強がりでも良いから発言して欲しいです。
年齢的な段階、おかれている状況によって目標の置きどころが違うことは十分理解しているつもりですが、敢えて頂点に立つという大きな目標を目指して欲しいと思います。
「それが世界で戦える選手が育つ」というこに繋がると思っています。
今年一年よろしくお願いします。
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