第84回都市対抗JX-ENEOSの連覇で幕を閉じました。
JR東日本にとっては、3度目の正直と意気込んだ戦いでしたが、またしても1歩届かず。
この両チームの力の差は全くないと客観的に見てもそう思います。
勝敗を分けたのは、運なのかもしれません。
両監督とも良く知っているため、JE-ENEOSには「おめでとう」、JR東日本には「いい戦いでした」と言いたいですね。
今大会は、関東地区対それ以外という構図との戦前予想でしたが、1回戦をみる限り、いい意味で予想が外れ、関東以外の地区が善戦、金星も多数あり、非常に面白い大会となりました。
下馬評の高かったNTT東日本、HONDA、JR九州の初戦敗退は期待をされていたファンはがっかりだったでしょう。
特にHONDA西郷選手のホームラン記録が話題を呼んでいたので、もう少しチャンスを与えたかったという想いも多くの方は持たれているのではないでしょうか。「来年も頑張れ、西郷!」
最終的にベスト4に残ったチームは、関東地区チームとなり、結果で判断すれば東高西低となりました。
ENEOSとJR東日本の間で3大会連続決勝戦が行われましたが、他のチームと力の差があるのかというと紙一重であることは間違いありません。
では、何が違うのかを考えてみると都市対抗の決勝戦に合わせた育成及び練習計画の策定にあるのかと考えます。
簡単に言うとこの2チームが、決勝戦の日から逆算した計画づくりを行い、それを実践しているのに対して、それ以外チームは場当たり的とは言いませんが、年間を通じた方針に沿った運営ができていないのではなかったのではと考えます。
加えて、チームを抱える会社の力の入れ具合の度合いも大きく影響しているかと思います。
両チームとも練習を行う環境、選手が生活を行う環境は社会人トップクラスであることは間違いありません。
それにも増して、選手以外のサポートをする体制の素晴らしさは、これぞ組織という模範であると思います。
「野球部を抱える=日本一」という社方針が正に徹底されている証しではないでしょうか。裏を返せば、「都市対抗で優勝できない=監督の責任」ということであり、中途敗退のチームが「惜しかったな」と声をかけてもらえるような甘さはないということになります。
当然、この2チーム以外にもこのような厳しい方針を掲げ取組んでいるチームも多くあります。
さて、環境面の話から運営に話を戻しますが、今回優勝したENEOSには二人のキーマンが居たと思います。
一人は、若獅子賞を受賞した新人の石川選手、もう一人は負傷の山岡正捕手の穴を埋めた日高捕手。
石川選手については、採用と育成の成功例であり、期待以上の力を発揮させた指導力の賜物であったと思います。
準決勝、決勝における1番機用の期待応えた石川選手の活躍は、正に優勝に直結したことは間違いありません。
日高捕手においては、これまでENEOSの守護神として君臨していた正捕手の山岡捕手の春先からの故障もあり、当然ながらその代役として起用されたのでしょうが、捕手というポジション特性からも簡単に取って代わるようなことはありえません。
都市対抗におけるリードを見る限り、数年正捕手としてマスクをかぶっているような様でした。日頃から第2捕手としての育成を行っていた証しであり、且つ、リスク管理の象徴といえるでしょう。
これ以外にも大黒柱の大城投手、三上投手、中軸の井領選手、山田選手、池辺選手の働きも大きな貢献であることは間違いありません。が、ある意味監督が計算した働きと言えるでしょう。
冒頭で運が左右したのかなと書きましたが、勝ち上がっていくには想定外の力を発揮する選手が必要になってきます。よく言われるラッキーボーイと言われる選手ですかね。
ENEOSには、石川、日高の二人もその選手が出てきたというのが今大会の勝利を勝ち得た大きな要因ではないでしょうか。
ラッキーボーイは、ある意味ではまだまだ実力ではないという評価でもありますので、今後二人の選手には益々精進してもらい、監督が計算できる真の実力を見につけて欲しいと期待します。
最後にJR東日本の齋藤主将ですが、準決勝で勝利を決定づける2点タイムリーを代打で登場し、放ちました。膝の靭帯損傷という野球選手にとって致命的な怪我からの復活劇で苦しんでいた時期を知っているだけに「良かったな」と心から言ってあげたいです。
残念ながら黒獅子旗を手にすることはできなかったですが、斉藤主将の求心力がJR東日本の原動力となっていることは間違いありませんから、それを信じて次大会での優勝を目指して欲しいと思います。
いよいよ都市対抗も終り、東アジア競技大会に向けた今年のJAPANの活動が開始されます。
7月31日から8月4日まで、一次合宿を行ないます。
詳細については、JABAホームページで後日発表されると思いますのでご覧下さい。
JAPANメンバーには、都市対抗で活躍した選手、活躍できなかった選手はいますが、代表に選ばれたことを誇りに思い、代表から洩れた選手の分まで頑張って欲しいです。
さ、気合入れて行こう。
2013年7月23日火曜日
2013年7月18日木曜日
第84回都市対抗野球~その1
第84回都市対抗大会が東京ドームで開催されております。
今日から2回戦が始まりますが、下馬評の高かったホンダ、NTT東日本、日本生命、JR九州が1回戦敗退と混沌とした大会となっています。
その中でも、都市対抗の常連である神奈川代表の3チームがしっかり勝ちあがってきていることは流石という感じです。
また、ここ数年の社会人野球の戦績は、エネオスとJR東日本の2強というイメージが強いのですが、1回戦をみる限り、この2チームは安定感があり、仕上がりも順調に見え、今大会も上位に上がってくることは間違いないと感じています。
話は変わりますが、都市対抗は補強選手制度があり、同一予選地区から3名までの他チーム選手を補強して試合に出場させることができる制度があります。
この制度は、それまで8球団で行われていたプロ野球が2リーグ制になったことにより、チーム数が15球団に膨れ上がったことに伴い、それに見合う選手が不足し、多数の社会人野球選手が引き抜かれていったことによる都市対抗大会のレベル低下を防ぐために、都市の代表は地区の代表でもあると考え、敗退したチームから選手を期間限定で借り受ける制度を1950年に創設されました。
1950年から2009年までは最大5名、2010年からは最大3名の選手をレンタルできる制度となっています。
実は、この補強制度が1回戦の戦いを非常に難しくさせていると考えています。
補強が加わることによって、戦力的には、弱点を補強するわけで必ずアップすることは間違いありません。
しかし、一方では、「弱点を補強しているわけだから、スタメンで起用する必要がある」、投手においては、「折角来てもらっているのだから、必ず登板させなければ」などと、試合に勝つことだけに集中している予選の戦い方と違う采配を行っていると感じることがあります。
このような別物の采配が結果的に力の発揮具合を左右し、勝敗にも影響を及ぼすケースを見てきました。
更に、補強が加わることは、予選まで自チームレギュラーとしてスタメン起用されていた選手が補強にとって代わられるということが起きるということになります。
したがって、予選とは違うチームになってしまっているということを指揮官は認識する必要があります。
予選から本大会までに補強選手を加えて練習する期間は十分ありますが、中々、戦略、戦術を変更するというところまで考えが及ばないというのが殆どでしょう。
よって、1回戦は非常に難しい!
補強選手は責任感から特に緊張するのが一般的です。
よって、補強選手が上手くはまらないことが度々起こり、厳しい戦いになってしまいます。
「補強選手だから」とつい指揮官が気を使った采配などするとしっぺ返しが待っていたなんてことも多くみています。
「打てないと思ったら、補強選手でも代打を送る。」「打たれると思ったら、非情に交代をさせる」、また試合の流れによって、「補強選手を使わずじまい」という勝負に徹した采配が1回戦を勝ち抜くには必要となってきます。
そういった意味では、今日から始まる2回戦からは、そのような補強選手の呪縛から逃れ、選手も1戦を終え、リラックスしたプレーが行えますので、本当の意味での実力が発揮されることになるのでしょう。
過去の神奈川代表チームにおいては、補強選手でもスタメンではないという厳しい采配を多くみてきました。全国で優勝するためにということを一番に考えているという現われなのだと思います。何となく、神奈川地区が都市対抗で勝つ理由が分かる気がします。
しかし、結局、補強選手が活躍しないチームは優勝していないのですがね。
今年の神奈川3代表は、今年すべて自前の選手、補強選手なしで戦っています。
今までと様相が違う挑戦をしていますので、今後の戦いぶり注目です。
残りのゲームも素晴らしい戦いを行い、観ている方に感動を提供して欲しいと思います。
今日から2回戦が始まりますが、下馬評の高かったホンダ、NTT東日本、日本生命、JR九州が1回戦敗退と混沌とした大会となっています。
その中でも、都市対抗の常連である神奈川代表の3チームがしっかり勝ちあがってきていることは流石という感じです。
また、ここ数年の社会人野球の戦績は、エネオスとJR東日本の2強というイメージが強いのですが、1回戦をみる限り、この2チームは安定感があり、仕上がりも順調に見え、今大会も上位に上がってくることは間違いないと感じています。
話は変わりますが、都市対抗は補強選手制度があり、同一予選地区から3名までの他チーム選手を補強して試合に出場させることができる制度があります。
この制度は、それまで8球団で行われていたプロ野球が2リーグ制になったことにより、チーム数が15球団に膨れ上がったことに伴い、それに見合う選手が不足し、多数の社会人野球選手が引き抜かれていったことによる都市対抗大会のレベル低下を防ぐために、都市の代表は地区の代表でもあると考え、敗退したチームから選手を期間限定で借り受ける制度を1950年に創設されました。
1950年から2009年までは最大5名、2010年からは最大3名の選手をレンタルできる制度となっています。
実は、この補強制度が1回戦の戦いを非常に難しくさせていると考えています。
補強が加わることによって、戦力的には、弱点を補強するわけで必ずアップすることは間違いありません。
しかし、一方では、「弱点を補強しているわけだから、スタメンで起用する必要がある」、投手においては、「折角来てもらっているのだから、必ず登板させなければ」などと、試合に勝つことだけに集中している予選の戦い方と違う采配を行っていると感じることがあります。
このような別物の采配が結果的に力の発揮具合を左右し、勝敗にも影響を及ぼすケースを見てきました。
更に、補強が加わることは、予選まで自チームレギュラーとしてスタメン起用されていた選手が補強にとって代わられるということが起きるということになります。
したがって、予選とは違うチームになってしまっているということを指揮官は認識する必要があります。
予選から本大会までに補強選手を加えて練習する期間は十分ありますが、中々、戦略、戦術を変更するというところまで考えが及ばないというのが殆どでしょう。
よって、1回戦は非常に難しい!
補強選手は責任感から特に緊張するのが一般的です。
よって、補強選手が上手くはまらないことが度々起こり、厳しい戦いになってしまいます。
「補強選手だから」とつい指揮官が気を使った采配などするとしっぺ返しが待っていたなんてことも多くみています。
「打てないと思ったら、補強選手でも代打を送る。」「打たれると思ったら、非情に交代をさせる」、また試合の流れによって、「補強選手を使わずじまい」という勝負に徹した采配が1回戦を勝ち抜くには必要となってきます。
そういった意味では、今日から始まる2回戦からは、そのような補強選手の呪縛から逃れ、選手も1戦を終え、リラックスしたプレーが行えますので、本当の意味での実力が発揮されることになるのでしょう。
過去の神奈川代表チームにおいては、補強選手でもスタメンではないという厳しい采配を多くみてきました。全国で優勝するためにということを一番に考えているという現われなのだと思います。何となく、神奈川地区が都市対抗で勝つ理由が分かる気がします。
しかし、結局、補強選手が活躍しないチームは優勝していないのですがね。
今年の神奈川3代表は、今年すべて自前の選手、補強選手なしで戦っています。
今までと様相が違う挑戦をしていますので、今後の戦いぶり注目です。
残りのゲームも素晴らしい戦いを行い、観ている方に感動を提供して欲しいと思います。
2013年7月9日火曜日
監督の資質
幻の完全試合から6年かけて中日の山井投手がノーヒットノーランを達成しました。
立場柄、良く研修の講義をする機会を頂くのですが、この6年前の出来事を置き換えて話をします。
「優勝において、重要な試合に期待を込めた若手投手を先発。予想以上の活躍で少し疲れは見せてきたが、8回まで完全試合で押さえ込んだ。得点差は僅かに1点。ストッパーにはリーグで一番の安定感のベテラン投手が控えている。9回をあなたは誰に託しますか?」という質問を投げかけます。
「交代させます」という意見と「続投」という意見に2分されます。
中には「ランナーを出すまで、続投させ、交代させる」という意見もありますが、私が「ランナー出すまでと送り出したらホームランを打たれるケースが良くあるのですよね」とコメントすると「交代させます」と答えが変わる場合も。
これは、育成を優先するのか、または経営を優先するか、或いは、個人を優先するか、チームを優先するかという究極の選択といえるかと思います。
当時、落合監督は、このケースで山井投手をあっさり交代し、押さえの岩瀬投手に継投しました。最終的には、岩瀬投手が抑えて勝利を手にしたのですが、マスコミからは非情の采配と茶化されていたように記憶しています。
判断を下すにあたっては、次の視点があるかと。
①プロ野球がファンサービスの職業であって、記録達成の瞬間をファンに見せてあげることの重要性。
②記録達成による個人の満足度及び自信をつけさせることの重要性。
③ペナントレースを制するという視点で記録よりも勝利を優先させなければならない。
④チームの勝利の方程式、役割を崩さず、例外を作らない。
落合監督は、コメントでも「長いペナントレースだがこの勝利は重要であった。山井で勝てたかもしれないが、指揮官としては、絶対に落とせない。したがって、岩瀬を登板させた。」というようなニュアンスで述べていたと記憶します。
どれが正解か?
賛否あって答えは出てこないと思います。結局、結果論ですから。
しかし、個人の尊重があって、チームが成り立ち。
チームを優先させるあまり、個が死んでしまっては本末転倒ということにもなります。
おそらく、試合を終ってから山井投手を落合監督は相当労ったと思いますよ。
指揮官や経営者になれば、時としてこのような非情な場面で決断を下さなければならない時が多々あります。
自分がどういう判断を下すタイプのリーダーであるかということを事前にシュミレーションをしておくことが、このような不足の事態での判断に後悔をしないことに繋がるかと。
「俺だったら・・・。」と置き換えて絶えず、判断を下す練習をしとくことも一つの方法でしょう。
意外にも情に流された決断をしていたり、他人の立場に置き換えて考えられていなかったりと自分自身を見つめなおす機会になります。
有事や不足の事態、予期せぬ出来事を解決するリーダーの決断力こそが勝負の分かれ道になると言い換えても過言ではないでしょう。
僕が落合監督の立場であれば、山井に期待していたかもしれません。
監督は、難しい!
立場柄、良く研修の講義をする機会を頂くのですが、この6年前の出来事を置き換えて話をします。
「優勝において、重要な試合に期待を込めた若手投手を先発。予想以上の活躍で少し疲れは見せてきたが、8回まで完全試合で押さえ込んだ。得点差は僅かに1点。ストッパーにはリーグで一番の安定感のベテラン投手が控えている。9回をあなたは誰に託しますか?」という質問を投げかけます。
「交代させます」という意見と「続投」という意見に2分されます。
中には「ランナーを出すまで、続投させ、交代させる」という意見もありますが、私が「ランナー出すまでと送り出したらホームランを打たれるケースが良くあるのですよね」とコメントすると「交代させます」と答えが変わる場合も。
これは、育成を優先するのか、または経営を優先するか、或いは、個人を優先するか、チームを優先するかという究極の選択といえるかと思います。
当時、落合監督は、このケースで山井投手をあっさり交代し、押さえの岩瀬投手に継投しました。最終的には、岩瀬投手が抑えて勝利を手にしたのですが、マスコミからは非情の采配と茶化されていたように記憶しています。
判断を下すにあたっては、次の視点があるかと。
①プロ野球がファンサービスの職業であって、記録達成の瞬間をファンに見せてあげることの重要性。
②記録達成による個人の満足度及び自信をつけさせることの重要性。
③ペナントレースを制するという視点で記録よりも勝利を優先させなければならない。
④チームの勝利の方程式、役割を崩さず、例外を作らない。
落合監督は、コメントでも「長いペナントレースだがこの勝利は重要であった。山井で勝てたかもしれないが、指揮官としては、絶対に落とせない。したがって、岩瀬を登板させた。」というようなニュアンスで述べていたと記憶します。
どれが正解か?
賛否あって答えは出てこないと思います。結局、結果論ですから。
しかし、個人の尊重があって、チームが成り立ち。
チームを優先させるあまり、個が死んでしまっては本末転倒ということにもなります。
おそらく、試合を終ってから山井投手を落合監督は相当労ったと思いますよ。
指揮官や経営者になれば、時としてこのような非情な場面で決断を下さなければならない時が多々あります。
自分がどういう判断を下すタイプのリーダーであるかということを事前にシュミレーションをしておくことが、このような不足の事態での判断に後悔をしないことに繋がるかと。
「俺だったら・・・。」と置き換えて絶えず、判断を下す練習をしとくことも一つの方法でしょう。
意外にも情に流された決断をしていたり、他人の立場に置き換えて考えられていなかったりと自分自身を見つめなおす機会になります。
有事や不足の事態、予期せぬ出来事を解決するリーダーの決断力こそが勝負の分かれ道になると言い換えても過言ではないでしょう。
僕が落合監督の立場であれば、山井に期待していたかもしれません。
監督は、難しい!
久慈賞
��月12日からいよいよ都市対抗が開幕します。
社会人野球に携わる者にとってはワクワクする期間が始まります。
郷土の代表、企業の威信をかけた戦いは、プロ野球、大学野球、高校野球と違った野球の存在を見ることができます。
真夏に開催されている大会ではありますが、空調の効いたドームの中で行われるため、見る側、プレーをする側にも有難い大会であり、また環境に左右されないため、まさしくガチンコの戦いが繰り広げられます。
私も現役時代は、この東京ドームでプレーした経験がありますが、体力面の披露も少なく、プレーに集中できたように思います。但し、乱視などのハンデを抱える人は、ボールがぼやけるかもしれませんね。あの白いテント屋根は昼間はフライが本当に見えない・・・。
幸いなことに、1991年には、運良く決勝まで駒を進めることができ、敢闘賞にあたる久慈賞を個人表彰として授与して戴きました。心技体が充実した時期で、おそらく競技ピークを迎えていたのでしょう。
そんなことを回想しながら、改めて久慈賞についてもう一度勉強しようと思って、久慈 次郎さんを検索、ウィキペディアを見たところ次の表記がありましたので、原文のままご紹介します。
久慈賞の制定は、1947年(第18回大会)からでそうで、今まで数多くの受賞者がいます。しかし、大会毎に橋戸賞と久慈賞は一人しか受賞することなく、改めて受賞できたことへの感謝の念を持つことと共に久慈賞に恥じないような野球人生を送らねばと決する次第です。
しかし、このような実直な生き方は、私にはハードルが高いかな!
久慈 次郎
岩手県盛岡市出身(青森県青森市生まれ)。
盛岡中学を卒業後、早稲田大学に進学し、在学中から持ち前の強肩とリーダーシップを発揮。
また、野球部監督の飛田穂洲に心酔し、「一球入魂」を座右の銘としていた。大学卒業後は北海道函館市の函館水電に入社、同社に務めつつ函館太洋倶楽部(函館オーシャン)でプレー、永く函館に在住した。1927年には函館水電を退社し、クジ運動具店を開業。店主として10人近くの従業員を雇う企業家としても活躍。
1934年にアメリカ選抜チームが来日するために結成された全日本チームに招聘された久慈は、全日本のエースであった沢村栄治とバッテリーを組み、アメリカ選抜チームを苦戦させた。ちなみにアメリカチームを1失点に抑えた静岡草薙球場での一戦においてその1点となるルー・ゲーリッグの本塁打の球は、その試合で初めて沢村が久慈のサインに首を振ったものであったが、直後に久慈がマウンドに向かって沢村と相談しており、最終的にどちらの意図する投球であったかは現在になってもわかっていない。
同年、全日本チームを核として職業(プロ)野球チーム:大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍)結成するにあたり、選手・主将としての参加を要請された[1]が、参加を辞退(久慈の辞退により、正式な初代主将には二出川延明が就任した。ただし、記録上では主将として久慈の名前が残っている)。アマチュア野球の発展に貢献しようとした。これには理由があり、同年3月に函館を襲った大火、函館大火により市が壊滅的なダメージを受けており、函館を離れようという踏ん切りがつかなかったためである。函館太洋倶楽部はこの年の都市対抗野球大会(第8回大会)の出場権を得ていたが、これを辞退した。この年、函館市議会に欠員が生じたため、日米野球の函館開催に尽力し、函館復興に心血を注いだ久慈を政治の場に、との声が上がる。本人は「議員なんて似つかわしくない」と発言しており、積極的な選挙活動は一切行わなかったが、トップ当選で函館市議となった。函館市議会員としての久慈の功績として、野球場やテニスコート、スキージャンプ台を兼ね揃えた函館市民運動場の設計がある(ただし、完成したのは久慈の死後であった。1954年に廃止され、現在は函館市立潮見中学校の敷地となっている)。
1939年8月19日、選手兼任監督として札幌市円山球場での札幌倶楽部[2]との試合に臨み、久慈は5回の守備からファーストに着いていた。1-2とリードされて迎えた7回、四球で一塁に歩く際、ホームベース上で次の打者に指示を与えようと振り向いた瞬間、走者が飛び出した二塁に向けて投げられた相手捕手の牽制球が右のこめかみを直撃、ホームベース上に倒れ込みそのまま動かず、そのまま市立札幌病院に運ばれたが2日後、頭蓋骨破損による脳出血でついに帰らぬ人となった。久慈の棺を乗せた列車は札幌から函館に向かったが、停車駅ごとに熱烈な野球ファンが駅に詰めかけて、久慈の死を惜しんだといわれている。久慈の墓は函館市の小高い丘の上に立てられ、その形はボールをかたどったものとなっている。
社会人野球に携わる者にとってはワクワクする期間が始まります。
郷土の代表、企業の威信をかけた戦いは、プロ野球、大学野球、高校野球と違った野球の存在を見ることができます。
真夏に開催されている大会ではありますが、空調の効いたドームの中で行われるため、見る側、プレーをする側にも有難い大会であり、また環境に左右されないため、まさしくガチンコの戦いが繰り広げられます。
私も現役時代は、この東京ドームでプレーした経験がありますが、体力面の披露も少なく、プレーに集中できたように思います。但し、乱視などのハンデを抱える人は、ボールがぼやけるかもしれませんね。あの白いテント屋根は昼間はフライが本当に見えない・・・。
幸いなことに、1991年には、運良く決勝まで駒を進めることができ、敢闘賞にあたる久慈賞を個人表彰として授与して戴きました。心技体が充実した時期で、おそらく競技ピークを迎えていたのでしょう。
そんなことを回想しながら、改めて久慈賞についてもう一度勉強しようと思って、久慈 次郎さんを検索、ウィキペディアを見たところ次の表記がありましたので、原文のままご紹介します。
久慈賞の制定は、1947年(第18回大会)からでそうで、今まで数多くの受賞者がいます。しかし、大会毎に橋戸賞と久慈賞は一人しか受賞することなく、改めて受賞できたことへの感謝の念を持つことと共に久慈賞に恥じないような野球人生を送らねばと決する次第です。
しかし、このような実直な生き方は、私にはハードルが高いかな!
久慈 次郎
岩手県盛岡市出身(青森県青森市生まれ)。
盛岡中学を卒業後、早稲田大学に進学し、在学中から持ち前の強肩とリーダーシップを発揮。
また、野球部監督の飛田穂洲に心酔し、「一球入魂」を座右の銘としていた。大学卒業後は北海道函館市の函館水電に入社、同社に務めつつ函館太洋倶楽部(函館オーシャン)でプレー、永く函館に在住した。1927年には函館水電を退社し、クジ運動具店を開業。店主として10人近くの従業員を雇う企業家としても活躍。
1934年にアメリカ選抜チームが来日するために結成された全日本チームに招聘された久慈は、全日本のエースであった沢村栄治とバッテリーを組み、アメリカ選抜チームを苦戦させた。ちなみにアメリカチームを1失点に抑えた静岡草薙球場での一戦においてその1点となるルー・ゲーリッグの本塁打の球は、その試合で初めて沢村が久慈のサインに首を振ったものであったが、直後に久慈がマウンドに向かって沢村と相談しており、最終的にどちらの意図する投球であったかは現在になってもわかっていない。
同年、全日本チームを核として職業(プロ)野球チーム:大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍)結成するにあたり、選手・主将としての参加を要請された[1]が、参加を辞退(久慈の辞退により、正式な初代主将には二出川延明が就任した。ただし、記録上では主将として久慈の名前が残っている)。アマチュア野球の発展に貢献しようとした。これには理由があり、同年3月に函館を襲った大火、函館大火により市が壊滅的なダメージを受けており、函館を離れようという踏ん切りがつかなかったためである。函館太洋倶楽部はこの年の都市対抗野球大会(第8回大会)の出場権を得ていたが、これを辞退した。この年、函館市議会に欠員が生じたため、日米野球の函館開催に尽力し、函館復興に心血を注いだ久慈を政治の場に、との声が上がる。本人は「議員なんて似つかわしくない」と発言しており、積極的な選挙活動は一切行わなかったが、トップ当選で函館市議となった。函館市議会員としての久慈の功績として、野球場やテニスコート、スキージャンプ台を兼ね揃えた函館市民運動場の設計がある(ただし、完成したのは久慈の死後であった。1954年に廃止され、現在は函館市立潮見中学校の敷地となっている)。
1939年8月19日、選手兼任監督として札幌市円山球場での札幌倶楽部[2]との試合に臨み、久慈は5回の守備からファーストに着いていた。1-2とリードされて迎えた7回、四球で一塁に歩く際、ホームベース上で次の打者に指示を与えようと振り向いた瞬間、走者が飛び出した二塁に向けて投げられた相手捕手の牽制球が右のこめかみを直撃、ホームベース上に倒れ込みそのまま動かず、そのまま市立札幌病院に運ばれたが2日後、頭蓋骨破損による脳出血でついに帰らぬ人となった。久慈の棺を乗せた列車は札幌から函館に向かったが、停車駅ごとに熱烈な野球ファンが駅に詰めかけて、久慈の死を惜しんだといわれている。久慈の墓は函館市の小高い丘の上に立てられ、その形はボールをかたどったものとなっている。
2013年7月8日月曜日
私の夏 Part2
前号で、一年生の夏の予選の話を記載しましたが、今回はその続きを。
甲子園が決まると今までの穏やかな高校生活とは少し違ったものになりました。
甲子園出場高校だけに与えられるメディア出演とか色々な取材対応。
当然、当時では珍しい1年生レギュラーは注目されました。
色々な雑誌から取材インタビューを受け、地元を歩いても知らない人がいないのではという錯覚も覚えるぐらい、一気に有名人に。
一方、それまで自分の打率とか個人成績などあまり気にしていませんでしたが、甲子園展望号などを先輩たちと見ていると自分の個人成績がそれ程高くないのに気づく。
取り上げられている注目選手の凄さに圧倒されるばかりで、少し不安を覚えるようになりました。が、意に介さず、今まで以上に生意気さは拍車をかけていきました。
予選が終ると慌しく、甲子園に行くことになります。気持ちの切り替えを行うこと時間がなく、いきなり試合当日を迎えたように思います。
試合当日、前の試合が大変長い試合となり、集中力の持続とか、正しいアップの仕方などの知識もなく、なんとく流れの中で試合前の挨拶を行いました。
甲子園練習とは全く違った観衆の中での試合、いきなり1回の表の打席を迎え、手が震えた感覚を初めて覚えました。バントのサインは分かっていたのですが、上手くからだがコントロールできなかったことを覚えています。たぶんあがっていたのだと思います。
そこからが、最低でした。
県大会では、無失策で乗り切っていた自信を持っていた守備。
スローイングミスを3つもやってしまいました。
解説は現在私が所属している日本野球連盟元会長の山本英一郎(故人)さん。
「元気はあるのですがね」とかばうのが精一杯でした。
一つ目のミスは、元気勇んで一塁手はるか上を行く大暴投、二つ目は、ちびってしまってワンバウンド。3つ目はよく覚えていませんというような始末。
勿論、全てのミスが失点に絡みました。
二つ目のミスをしたときは、泣きながら「代えてください」と監督に直訴しました。
今までの全ての自信を失った瞬間でした。
この試合の進行は、ミスをしたこと以外、全く覚えていません。
二度とこの試合のビデオも見ることもありません。
当然ながら、試合に負け、若干15歳に失態に耐えることできず、人目もはばからず泣きじゃくっていました。無力感で一杯でした。
その時、主将が歩み寄ってきて、一言。
「お前のお陰で甲子園に来れた。まだお前には次がある。胸を張れ。」と。
本当に救われました。
正にこの一言こそが、私の人生を変えてくれた言葉であると思います。
この言葉を秘めて、私の1回目の短い夏は終わりました。
地元に戻り、新チームを迎えると当然、練習試合などで相手高校からも容赦ない野次や周囲からの冷ややかな目が待っていました。そのようなこともあり、ボールを投げることに対する恐怖が野球をやっているときだけでなく、日常生活にも襲ってきました。
これ以来、キャッチボールにおける、投げる瞬間、ボールが離れる瞬間の感覚を完全に失ってしまいました。
見かねた監督は、私を外野にコンバートしました。
が、外野に回された私は全くやる気を失いました。
外野を馬鹿にしているのではなく、3塁手から逃げている自分が嫌で嫌でたまりませんでした。
監督に3塁をやらしてくださいと掛け合いました。とは言っても、まともに投げる自信などありえません。監督は、たぶん見抜いていたのでしょうね。私の気持ちを。
それでも、1ヶ月ほど、「3塁に戻してください」と監督への直訴を続けました。
ほぼ諦めかけたときに監督ら呼ばれ、「本気で3塁手に戻りたいのか」と聞かれ、「ハイ」と応え、新チームでの3塁手としての再スタートを切りました。
「投げれない自分」など想定もしていなかったので、この時期は本当に地獄でした。
試合でミスする不安は練習する度に増徴していきます。
これは投げられない経験をした人しか分からないでしょう。
本当にすぐそこまでが上手く投げられなくなってしまいます。
監督がつきっきりで指導をしてくださいました。
この時期に我流では駄目で、基本が大切であるということ知ったといっても過言ではありません。
練習を行っていくたびに、少しずつ投げることへの自信を取り戻してきました。そこまでの過程に辿りつくにはかなりの数を投げたことはお察しのとおり。
1年生の秋の予選が始まり、少しずつパワーがついてきて、打つほうはかなり力をつけてきました。スタンドを越えることもしばしば。ですが、投げることへの不安は完全に払拭できていません。
何とかアウトにしているというのが正直なところでした。
遠投120m投げていた自慢の肩も全くその片鱗を見せるような気配なしです。
新チームは甲子園を経験したものが多く、比較的強く、九州大会もベスト4に勝ち残り、2度目の甲子園をあっさり決めました。
いよいよ、リベンジの舞台です。
私にとっては勝つことも勿論ですが、3塁手としてちゃんとアウトを取ることが最大の目標です。これは自分自身との戦いで、他人には分かりえないでしょうが。
目標を持って望んだ甲子園1回戦、ゲームは接戦。2死満塁のピンチを迎えました。
「とんで来るな」と弱気な心がつぶやく中、ボールが飛んできました。
どのようにして捕球したのかは、よく覚えていませんが、弱気な心と強い気持ちの葛藤の中、1塁にボールを投げました。
「高い球は駄目、低い球を」と前回の学習は出来ていますが、余りにも低い軌道。
当然、ワンバウンド。「しまった」と思いました。
が、次の瞬間、1塁手が上手く救い上げてくれました。
ボールとともに心も救われた瞬間でした。
もし、あのボールを捕球してくれてなかったら、以降の野球人生は無かったかもしれません。
ボールを捕ってくれる相手がいるということに何故気づかなかったのだろう。
「少しぐらいボールがそれたって大丈夫だ」ということを完全に忘れていました。
改めて、野球は一人でやるものではないことを痛感しました。
この試合は、私が甲子園で放ったたった1本の安打が決勝打となり、勝ちました。
新聞では、「夏のリベンジ」ともてはやさしましたが、本当の意味でのリベンジは、仲間のお陰なのです。
日本代表としてオリンピックに出場、日本代表監督だからさぞ輝かしい球暦があると思われがちですが意外にこの程度のものです。
しがない自叙伝となってしまいましたかね、なにかご参考になれば・・・。
甲子園が決まると今までの穏やかな高校生活とは少し違ったものになりました。
甲子園出場高校だけに与えられるメディア出演とか色々な取材対応。
当然、当時では珍しい1年生レギュラーは注目されました。
色々な雑誌から取材インタビューを受け、地元を歩いても知らない人がいないのではという錯覚も覚えるぐらい、一気に有名人に。
一方、それまで自分の打率とか個人成績などあまり気にしていませんでしたが、甲子園展望号などを先輩たちと見ていると自分の個人成績がそれ程高くないのに気づく。
取り上げられている注目選手の凄さに圧倒されるばかりで、少し不安を覚えるようになりました。が、意に介さず、今まで以上に生意気さは拍車をかけていきました。
予選が終ると慌しく、甲子園に行くことになります。気持ちの切り替えを行うこと時間がなく、いきなり試合当日を迎えたように思います。
試合当日、前の試合が大変長い試合となり、集中力の持続とか、正しいアップの仕方などの知識もなく、なんとく流れの中で試合前の挨拶を行いました。
甲子園練習とは全く違った観衆の中での試合、いきなり1回の表の打席を迎え、手が震えた感覚を初めて覚えました。バントのサインは分かっていたのですが、上手くからだがコントロールできなかったことを覚えています。たぶんあがっていたのだと思います。
そこからが、最低でした。
県大会では、無失策で乗り切っていた自信を持っていた守備。
スローイングミスを3つもやってしまいました。
解説は現在私が所属している日本野球連盟元会長の山本英一郎(故人)さん。
「元気はあるのですがね」とかばうのが精一杯でした。
一つ目のミスは、元気勇んで一塁手はるか上を行く大暴投、二つ目は、ちびってしまってワンバウンド。3つ目はよく覚えていませんというような始末。
勿論、全てのミスが失点に絡みました。
二つ目のミスをしたときは、泣きながら「代えてください」と監督に直訴しました。
今までの全ての自信を失った瞬間でした。
この試合の進行は、ミスをしたこと以外、全く覚えていません。
二度とこの試合のビデオも見ることもありません。
当然ながら、試合に負け、若干15歳に失態に耐えることできず、人目もはばからず泣きじゃくっていました。無力感で一杯でした。
その時、主将が歩み寄ってきて、一言。
「お前のお陰で甲子園に来れた。まだお前には次がある。胸を張れ。」と。
本当に救われました。
正にこの一言こそが、私の人生を変えてくれた言葉であると思います。
この言葉を秘めて、私の1回目の短い夏は終わりました。
地元に戻り、新チームを迎えると当然、練習試合などで相手高校からも容赦ない野次や周囲からの冷ややかな目が待っていました。そのようなこともあり、ボールを投げることに対する恐怖が野球をやっているときだけでなく、日常生活にも襲ってきました。
これ以来、キャッチボールにおける、投げる瞬間、ボールが離れる瞬間の感覚を完全に失ってしまいました。
見かねた監督は、私を外野にコンバートしました。
が、外野に回された私は全くやる気を失いました。
外野を馬鹿にしているのではなく、3塁手から逃げている自分が嫌で嫌でたまりませんでした。
監督に3塁をやらしてくださいと掛け合いました。とは言っても、まともに投げる自信などありえません。監督は、たぶん見抜いていたのでしょうね。私の気持ちを。
それでも、1ヶ月ほど、「3塁に戻してください」と監督への直訴を続けました。
ほぼ諦めかけたときに監督ら呼ばれ、「本気で3塁手に戻りたいのか」と聞かれ、「ハイ」と応え、新チームでの3塁手としての再スタートを切りました。
「投げれない自分」など想定もしていなかったので、この時期は本当に地獄でした。
試合でミスする不安は練習する度に増徴していきます。
これは投げられない経験をした人しか分からないでしょう。
本当にすぐそこまでが上手く投げられなくなってしまいます。
監督がつきっきりで指導をしてくださいました。
この時期に我流では駄目で、基本が大切であるということ知ったといっても過言ではありません。
練習を行っていくたびに、少しずつ投げることへの自信を取り戻してきました。そこまでの過程に辿りつくにはかなりの数を投げたことはお察しのとおり。
1年生の秋の予選が始まり、少しずつパワーがついてきて、打つほうはかなり力をつけてきました。スタンドを越えることもしばしば。ですが、投げることへの不安は完全に払拭できていません。
何とかアウトにしているというのが正直なところでした。
遠投120m投げていた自慢の肩も全くその片鱗を見せるような気配なしです。
新チームは甲子園を経験したものが多く、比較的強く、九州大会もベスト4に勝ち残り、2度目の甲子園をあっさり決めました。
いよいよ、リベンジの舞台です。
私にとっては勝つことも勿論ですが、3塁手としてちゃんとアウトを取ることが最大の目標です。これは自分自身との戦いで、他人には分かりえないでしょうが。
目標を持って望んだ甲子園1回戦、ゲームは接戦。2死満塁のピンチを迎えました。
「とんで来るな」と弱気な心がつぶやく中、ボールが飛んできました。
どのようにして捕球したのかは、よく覚えていませんが、弱気な心と強い気持ちの葛藤の中、1塁にボールを投げました。
「高い球は駄目、低い球を」と前回の学習は出来ていますが、余りにも低い軌道。
当然、ワンバウンド。「しまった」と思いました。
が、次の瞬間、1塁手が上手く救い上げてくれました。
ボールとともに心も救われた瞬間でした。
もし、あのボールを捕球してくれてなかったら、以降の野球人生は無かったかもしれません。
ボールを捕ってくれる相手がいるということに何故気づかなかったのだろう。
「少しぐらいボールがそれたって大丈夫だ」ということを完全に忘れていました。
改めて、野球は一人でやるものではないことを痛感しました。
この試合は、私が甲子園で放ったたった1本の安打が決勝打となり、勝ちました。
新聞では、「夏のリベンジ」ともてはやさしましたが、本当の意味でのリベンジは、仲間のお陰なのです。
日本代表としてオリンピックに出場、日本代表監督だからさぞ輝かしい球暦があると思われがちですが意外にこの程度のものです。
しがない自叙伝となってしまいましたかね、なにかご参考になれば・・・。
私の夏 Part1
夏の甲子園をかけた予選が各地で始まりました。
熱い夏の到来とともに本当に連日気温も上昇、選手たちも大変でしょう。頑張って下さい。
思い起こせば今から35年前に私も初めての夏の予選を経験しました。
私が高校入学前の春の大会では我が母校は、先輩の頑張りもあり、九州大会に出場するようなチームでした。勿論、それなりに強かったのだと思います。
入学した当時は、2,3年生を見て、年齢の差による体格の違いに驚きを覚えたのも事実でした。
入学直後、中学3年では投手をしていたこともあり、監督に「ブルペンで投げてみろ」と言われ、2,3年生の見守る中、投球の機会を得ました。当時、中学時代から球の速さだけは群を抜いていたので、上級生の反応もそれなりの反応でした。
投球後、監督から「手を見せてみろ」と言われ、素直に従うと余りの小ささにあっさり「今日から3塁に入れ」と言われ、その日から私の3塁での戦いが始まりました。
今でこそ、1年生が試合に出場するのは通例となっていますが、当時で1年生がシートノックに入ることなど、よほど部員数が少なくない限り、あり得ないという時代でした。
1年間の球拾いは、ある程度覚悟していましたが、まさかこのように簡単に背番号を貰えることになるなど想定外でした。
入学してから2週間も経過しないうちに福岡遠征にも帯同。
そのときから試合に出始め、1ヶ月後には、ほぼ3塁のポジションを手中に収め、2番を任されることに。
勿論、その前にレギュラーであった2,3年生にとっては、生意気な1年坊主という印象しか持たれなかったでしょう。
事実、相当生意気であったと後から言われましたから・・・。
この生意気な1年坊主が臆することなく、プレーをするものですから他の上級生も負けておられぬと文字通り「切磋琢磨」(これは校風でもあります)していたように思います。
私が、100本ノックを受けると先輩が150本といつも競いあっていたように思います。
おそらく「いつかこのくそ生意気な餓鬼を懲らしめてやろう」と思っていたのでしょう。
後から監督から聞きましたが、私の起用は、この相乗効果を狙っていたと話されていました。
いよいよ夏の予選がスタート。
若干15歳。2,3年生の上級生に混じって甲子園というプレッシャーなど微塵も感じないまま試合をしていました。
「甲子園に行きたい」という想いは強かったですが、どのような戦いが待つのかの経験もなく、ただひたすら一生懸命に自分の力を発揮することに執着していたように感じます。
1戦1戦を勝ち抜くたびに甲子園が近づいてくるのですが、当人は、それ程実感もなく、大勢の人の前でプレーをする喜びに酔っていたように感じます。
準決勝、決勝は全校応援でした。
我が母校は、県内屈指の進学校でもあり、受験勉強に力を入れているにも拘らず、二日も全校応援とした校長の判断は凄いことだったのではないでしょうか。
スタンドの生徒とベンチが一体感を持ちながらのこの2試合は、世界大会や大きな大会に参加させて戴きましたが、野球人生の中でも一番の興奮を覚えた時間でした。
準決勝は、9回2死まで2点負けている中、そこから同点に追いつき、延長で下しました。この試合は、今でも忘れられない試合の一つです。
同点に追いつた要因も遊撃手が捕球して、2塁にトスしてゲームセットと思った瞬間のイレギュラーヒットによるものでしたから、ボルテージは上がるのは必然。
スタンド、ベンチとも試合も終っていないのに既に泣いていました・・・。
勝つには、運も必要なんだということを痛感しましたね。
決勝では、この苦しさから開放されたか、好投手と前評判が高い投手を攻略して一方的な強さで甲子園を決めました。
ウイニングボールも遊撃手のボールであったにも拘らず、私が横取りしました。
マウンドに集まって喜ぶ姿を見て、2,3年生の甲子園への想いというのがこれほどまでかと初めて気がついた瞬間でもありました。
スタンドも暑さなど気にすることなく、歓喜の渦でした。
正に学校が一つになった瞬間でしょう。
強豪高校ではない、普通の県立学校でも勝てるという実例を作れた喜びは、私がこの学校を選んだ志望動機でもあり、本当に嬉しい想いでした。
練習時間が短く、ほぼ内野しか使えない校庭での練習。バッティング練習、全員を守備につけての練習などは、土日しか出来ませんでした。
強くなる環境では決してなかったですが、考える力、創意工夫する力は間違いなくつきました。
これぞ、高校野球と今でも私は思っています。
上手くなるために、強くなるために「環境が~」など今でも嘆くことはありません。
これは高校時代に教えられた賜物と感謝しています。
私の夏というタイトルで新聞報道にて過去の選手を取り上げておられますが、私は、毎年夏になるとこのことをふと思い出しまし、原点回帰する瞬間でもあります。
自叙伝を記載するつもりは毛頭ありません。
今を生きる選手、指導者の皆様の参考になればという気持ちで記載をしています。
自分のことを記載することこそ、恥ずかしいものはありませんので・・・。
次回は、私の夏 Part2で、この歓喜から試練を迎えることになるあたりを記載します。
熱い夏の到来とともに本当に連日気温も上昇、選手たちも大変でしょう。頑張って下さい。
思い起こせば今から35年前に私も初めての夏の予選を経験しました。
私が高校入学前の春の大会では我が母校は、先輩の頑張りもあり、九州大会に出場するようなチームでした。勿論、それなりに強かったのだと思います。
入学した当時は、2,3年生を見て、年齢の差による体格の違いに驚きを覚えたのも事実でした。
入学直後、中学3年では投手をしていたこともあり、監督に「ブルペンで投げてみろ」と言われ、2,3年生の見守る中、投球の機会を得ました。当時、中学時代から球の速さだけは群を抜いていたので、上級生の反応もそれなりの反応でした。
投球後、監督から「手を見せてみろ」と言われ、素直に従うと余りの小ささにあっさり「今日から3塁に入れ」と言われ、その日から私の3塁での戦いが始まりました。
今でこそ、1年生が試合に出場するのは通例となっていますが、当時で1年生がシートノックに入ることなど、よほど部員数が少なくない限り、あり得ないという時代でした。
1年間の球拾いは、ある程度覚悟していましたが、まさかこのように簡単に背番号を貰えることになるなど想定外でした。
入学してから2週間も経過しないうちに福岡遠征にも帯同。
そのときから試合に出始め、1ヶ月後には、ほぼ3塁のポジションを手中に収め、2番を任されることに。
勿論、その前にレギュラーであった2,3年生にとっては、生意気な1年坊主という印象しか持たれなかったでしょう。
事実、相当生意気であったと後から言われましたから・・・。
この生意気な1年坊主が臆することなく、プレーをするものですから他の上級生も負けておられぬと文字通り「切磋琢磨」(これは校風でもあります)していたように思います。
私が、100本ノックを受けると先輩が150本といつも競いあっていたように思います。
おそらく「いつかこのくそ生意気な餓鬼を懲らしめてやろう」と思っていたのでしょう。
後から監督から聞きましたが、私の起用は、この相乗効果を狙っていたと話されていました。
いよいよ夏の予選がスタート。
若干15歳。2,3年生の上級生に混じって甲子園というプレッシャーなど微塵も感じないまま試合をしていました。
「甲子園に行きたい」という想いは強かったですが、どのような戦いが待つのかの経験もなく、ただひたすら一生懸命に自分の力を発揮することに執着していたように感じます。
1戦1戦を勝ち抜くたびに甲子園が近づいてくるのですが、当人は、それ程実感もなく、大勢の人の前でプレーをする喜びに酔っていたように感じます。
準決勝、決勝は全校応援でした。
我が母校は、県内屈指の進学校でもあり、受験勉強に力を入れているにも拘らず、二日も全校応援とした校長の判断は凄いことだったのではないでしょうか。
スタンドの生徒とベンチが一体感を持ちながらのこの2試合は、世界大会や大きな大会に参加させて戴きましたが、野球人生の中でも一番の興奮を覚えた時間でした。
準決勝は、9回2死まで2点負けている中、そこから同点に追いつき、延長で下しました。この試合は、今でも忘れられない試合の一つです。
同点に追いつた要因も遊撃手が捕球して、2塁にトスしてゲームセットと思った瞬間のイレギュラーヒットによるものでしたから、ボルテージは上がるのは必然。
スタンド、ベンチとも試合も終っていないのに既に泣いていました・・・。
勝つには、運も必要なんだということを痛感しましたね。
決勝では、この苦しさから開放されたか、好投手と前評判が高い投手を攻略して一方的な強さで甲子園を決めました。
ウイニングボールも遊撃手のボールであったにも拘らず、私が横取りしました。
マウンドに集まって喜ぶ姿を見て、2,3年生の甲子園への想いというのがこれほどまでかと初めて気がついた瞬間でもありました。
スタンドも暑さなど気にすることなく、歓喜の渦でした。
正に学校が一つになった瞬間でしょう。
強豪高校ではない、普通の県立学校でも勝てるという実例を作れた喜びは、私がこの学校を選んだ志望動機でもあり、本当に嬉しい想いでした。
練習時間が短く、ほぼ内野しか使えない校庭での練習。バッティング練習、全員を守備につけての練習などは、土日しか出来ませんでした。
強くなる環境では決してなかったですが、考える力、創意工夫する力は間違いなくつきました。
これぞ、高校野球と今でも私は思っています。
上手くなるために、強くなるために「環境が~」など今でも嘆くことはありません。
これは高校時代に教えられた賜物と感謝しています。
私の夏というタイトルで新聞報道にて過去の選手を取り上げておられますが、私は、毎年夏になるとこのことをふと思い出しまし、原点回帰する瞬間でもあります。
自叙伝を記載するつもりは毛頭ありません。
今を生きる選手、指導者の皆様の参考になればという気持ちで記載をしています。
自分のことを記載することこそ、恥ずかしいものはありませんので・・・。
次回は、私の夏 Part2で、この歓喜から試練を迎えることになるあたりを記載します。
2013年7月4日木曜日
東アジア競技大会代表選手
7月2日に今年10月に中国天津で開催される東アジア競技大会の代表メンバーが決定しました。4大会目の指揮をとらせて頂くことになりますが、今回の選手選考は非常に難しい選考となりました。
①第1次の選手登録が本年1月締切りであったため、昨年度の選手の成績をもって登録をしなければならなかったことにより、今年目覚しい活躍をした選手、新人選手などがモーラされず、選出できなかったこと。
②また、最終締め切りが7月初旬であったたため、都市対抗野球本大会の試合結果を反映できず、JABA大会及び予選の成績で選出しなければならなかったこと。
③さらに大学生がほぼリーグ戦最中である10月であるため、特に投手に面白い選手がいる大学生を選出できなかったこと。
などが大きな理由に挙げられます。
今回の選考方針は、勿論、東アジア競技大会で金メダルを獲り、アジアNO.1を死守することですが、それ以上に来年の9月に開催されるアジア競技大会で金メダルを獲るための土台づくりを行うことを大方針としています。したがって、若手の登用を念頭にある程度の年齢制限を引いた形で選考を進めていきました。
野球のオリンピック復活運動が現在展開されていますが、アマチュア選手が過去オリンピックに参加していた時代と違い、現在はアマチュア選手が世界に出る機会はめっきり少なくなりました。世界を知ることが日本野球の発展につながることになるわけでアマ時代から世界大会への出場の機会を増やしていくことが今後の課題です。
話がそれましたが、アジア競技大会は現在、アマ日本代表の最大の大会と言っても過言ではありません。韓国は兵役免除をかけた一流選手が出場しますし、台湾もメダル獲得をかけ、ほぼプロ選手で参加することが予想されます。
アジア地区だけという狭い範囲ではありますが、それなりに大変な戦いになることは前々回のドーハ大会、前回の広州大会で経験し、承知しているつもりです。
来年のアジア大会を勝利で飾る意味でも、今回の東アジア大会は是非勝って選手に自信をつけさせたいと思います。
さて、今回選出したメンバーは
投手 吉田、片山(JR東日本)、浦野(セガサミー)、東名(富士重工)、吉原(日本生命)、大城(JX-ENEOS)、秋吉(Panasonic)、濱野(JR九州)
捕手 中野(JR九州)、上田(NTT東日本)、二葉(トヨタ)
内野手 多幡、川戸(ホンダ)、井上(日本生命)、田中、石岡(JR東日本)、渡辺(JX-ENEOS)、岡崎(日立)、山川(富士大学)
外野手 松本(JR東日本)、大河原(東芝)、井領(JX-ENEOS)、堀越(新日鉄住金鹿島)、松島(伯和ビクトリーズ)
の24名です。
当初の200名近くの一次登録選手から30名の候補選手に絞りこみ、最終的に24名ということとしましたが、特に30名の候補選手のうち今回選出されなかった6名の選手については、JOC手続まで対応してもらい、期待を持たせることとなり申し訳ない気持ちで一杯です。
が、これも代表の試練と考え、次回のアジア大会の候補選手の有力候補であることには間違いないですから更なる成長を期待します。
まだ本人には伝えていませんが、今回の主将は昨年の台湾で開催されたBFAアジア選手権と同様、多幡選手(ホンダ)にお願いする予定です。
主将を中心に選手が主体的に関わるようなチームづくりを今回のテーマにしていきたいと思います。
一次合宿を7月31日-8月4日 東京近郊。
9月27日-10月3日の直前合宿を経て、大会に臨む計画としています。
アマ全日本へのご声援もよろしくお願いします。
①第1次の選手登録が本年1月締切りであったため、昨年度の選手の成績をもって登録をしなければならなかったことにより、今年目覚しい活躍をした選手、新人選手などがモーラされず、選出できなかったこと。
②また、最終締め切りが7月初旬であったたため、都市対抗野球本大会の試合結果を反映できず、JABA大会及び予選の成績で選出しなければならなかったこと。
③さらに大学生がほぼリーグ戦最中である10月であるため、特に投手に面白い選手がいる大学生を選出できなかったこと。
などが大きな理由に挙げられます。
今回の選考方針は、勿論、東アジア競技大会で金メダルを獲り、アジアNO.1を死守することですが、それ以上に来年の9月に開催されるアジア競技大会で金メダルを獲るための土台づくりを行うことを大方針としています。したがって、若手の登用を念頭にある程度の年齢制限を引いた形で選考を進めていきました。
野球のオリンピック復活運動が現在展開されていますが、アマチュア選手が過去オリンピックに参加していた時代と違い、現在はアマチュア選手が世界に出る機会はめっきり少なくなりました。世界を知ることが日本野球の発展につながることになるわけでアマ時代から世界大会への出場の機会を増やしていくことが今後の課題です。
話がそれましたが、アジア競技大会は現在、アマ日本代表の最大の大会と言っても過言ではありません。韓国は兵役免除をかけた一流選手が出場しますし、台湾もメダル獲得をかけ、ほぼプロ選手で参加することが予想されます。
アジア地区だけという狭い範囲ではありますが、それなりに大変な戦いになることは前々回のドーハ大会、前回の広州大会で経験し、承知しているつもりです。
来年のアジア大会を勝利で飾る意味でも、今回の東アジア大会は是非勝って選手に自信をつけさせたいと思います。
さて、今回選出したメンバーは
投手 吉田、片山(JR東日本)、浦野(セガサミー)、東名(富士重工)、吉原(日本生命)、大城(JX-ENEOS)、秋吉(Panasonic)、濱野(JR九州)
捕手 中野(JR九州)、上田(NTT東日本)、二葉(トヨタ)
内野手 多幡、川戸(ホンダ)、井上(日本生命)、田中、石岡(JR東日本)、渡辺(JX-ENEOS)、岡崎(日立)、山川(富士大学)
外野手 松本(JR東日本)、大河原(東芝)、井領(JX-ENEOS)、堀越(新日鉄住金鹿島)、松島(伯和ビクトリーズ)
の24名です。
当初の200名近くの一次登録選手から30名の候補選手に絞りこみ、最終的に24名ということとしましたが、特に30名の候補選手のうち今回選出されなかった6名の選手については、JOC手続まで対応してもらい、期待を持たせることとなり申し訳ない気持ちで一杯です。
が、これも代表の試練と考え、次回のアジア大会の候補選手の有力候補であることには間違いないですから更なる成長を期待します。
まだ本人には伝えていませんが、今回の主将は昨年の台湾で開催されたBFAアジア選手権と同様、多幡選手(ホンダ)にお願いする予定です。
主将を中心に選手が主体的に関わるようなチームづくりを今回のテーマにしていきたいと思います。
一次合宿を7月31日-8月4日 東京近郊。
9月27日-10月3日の直前合宿を経て、大会に臨む計画としています。
アマ全日本へのご声援もよろしくお願いします。
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