2013年7月8日月曜日

私の夏 Part2

前号で、一年生の夏の予選の話を記載しましたが、今回はその続きを。

甲子園が決まると今までの穏やかな高校生活とは少し違ったものになりました。
甲子園出場高校だけに与えられるメディア出演とか色々な取材対応。
当然、当時では珍しい1年生レギュラーは注目されました。
色々な雑誌から取材インタビューを受け、地元を歩いても知らない人がいないのではという錯覚も覚えるぐらい、一気に有名人に。
一方、それまで自分の打率とか個人成績などあまり気にしていませんでしたが、甲子園展望号などを先輩たちと見ていると自分の個人成績がそれ程高くないのに気づく。
取り上げられている注目選手の凄さに圧倒されるばかりで、少し不安を覚えるようになりました。が、意に介さず、今まで以上に生意気さは拍車をかけていきました。

予選が終ると慌しく、甲子園に行くことになります。気持ちの切り替えを行うこと時間がなく、いきなり試合当日を迎えたように思います。
試合当日、前の試合が大変長い試合となり、集中力の持続とか、正しいアップの仕方などの知識もなく、なんとく流れの中で試合前の挨拶を行いました。
甲子園練習とは全く違った観衆の中での試合、いきなり1回の表の打席を迎え、手が震えた感覚を初めて覚えました。バントのサインは分かっていたのですが、上手くからだがコントロールできなかったことを覚えています。たぶんあがっていたのだと思います。
そこからが、最低でした。
県大会では、無失策で乗り切っていた自信を持っていた守備。
スローイングミスを3つもやってしまいました。
解説は現在私が所属している日本野球連盟元会長の山本英一郎(故人)さん。
「元気はあるのですがね」とかばうのが精一杯でした。
一つ目のミスは、元気勇んで一塁手はるか上を行く大暴投、二つ目は、ちびってしまってワンバウンド。3つ目はよく覚えていませんというような始末。
勿論、全てのミスが失点に絡みました。
二つ目のミスをしたときは、泣きながら「代えてください」と監督に直訴しました。
今までの全ての自信を失った瞬間でした。
この試合の進行は、ミスをしたこと以外、全く覚えていません。
二度とこの試合のビデオも見ることもありません。
当然ながら、試合に負け、若干15歳に失態に耐えることできず、人目もはばからず泣きじゃくっていました。無力感で一杯でした。
その時、主将が歩み寄ってきて、一言。
「お前のお陰で甲子園に来れた。まだお前には次がある。胸を張れ。」と。
本当に救われました。
正にこの一言こそが、私の人生を変えてくれた言葉であると思います。

この言葉を秘めて、私の1回目の短い夏は終わりました。

地元に戻り、新チームを迎えると当然、練習試合などで相手高校からも容赦ない野次や周囲からの冷ややかな目が待っていました。そのようなこともあり、ボールを投げることに対する恐怖が野球をやっているときだけでなく、日常生活にも襲ってきました。
これ以来、キャッチボールにおける、投げる瞬間、ボールが離れる瞬間の感覚を完全に失ってしまいました。

見かねた監督は、私を外野にコンバートしました。
が、外野に回された私は全くやる気を失いました。
外野を馬鹿にしているのではなく、3塁手から逃げている自分が嫌で嫌でたまりませんでした。

監督に3塁をやらしてくださいと掛け合いました。とは言っても、まともに投げる自信などありえません。監督は、たぶん見抜いていたのでしょうね。私の気持ちを。
それでも、1ヶ月ほど、「3塁に戻してください」と監督への直訴を続けました。
ほぼ諦めかけたときに監督ら呼ばれ、「本気で3塁手に戻りたいのか」と聞かれ、「ハイ」と応え、新チームでの3塁手としての再スタートを切りました。

「投げれない自分」など想定もしていなかったので、この時期は本当に地獄でした。
試合でミスする不安は練習する度に増徴していきます。
これは投げられない経験をした人しか分からないでしょう。
本当にすぐそこまでが上手く投げられなくなってしまいます。
監督がつきっきりで指導をしてくださいました。
この時期に我流では駄目で、基本が大切であるということ知ったといっても過言ではありません。

練習を行っていくたびに、少しずつ投げることへの自信を取り戻してきました。そこまでの過程に辿りつくにはかなりの数を投げたことはお察しのとおり。

1年生の秋の予選が始まり、少しずつパワーがついてきて、打つほうはかなり力をつけてきました。スタンドを越えることもしばしば。ですが、投げることへの不安は完全に払拭できていません。
何とかアウトにしているというのが正直なところでした。
遠投120m投げていた自慢の肩も全くその片鱗を見せるような気配なしです。

新チームは甲子園を経験したものが多く、比較的強く、九州大会もベスト4に勝ち残り、2度目の甲子園をあっさり決めました。
いよいよ、リベンジの舞台です。

私にとっては勝つことも勿論ですが、3塁手としてちゃんとアウトを取ることが最大の目標です。これは自分自身との戦いで、他人には分かりえないでしょうが。

目標を持って望んだ甲子園1回戦、ゲームは接戦。2死満塁のピンチを迎えました。
「とんで来るな」と弱気な心がつぶやく中、ボールが飛んできました。
どのようにして捕球したのかは、よく覚えていませんが、弱気な心と強い気持ちの葛藤の中、1塁にボールを投げました。
「高い球は駄目、低い球を」と前回の学習は出来ていますが、余りにも低い軌道。
当然、ワンバウンド。「しまった」と思いました。
が、次の瞬間、1塁手が上手く救い上げてくれました。
ボールとともに心も救われた瞬間でした。
もし、あのボールを捕球してくれてなかったら、以降の野球人生は無かったかもしれません。
ボールを捕ってくれる相手がいるということに何故気づかなかったのだろう。
「少しぐらいボールがそれたって大丈夫だ」ということを完全に忘れていました。
改めて、野球は一人でやるものではないことを痛感しました。

この試合は、私が甲子園で放ったたった1本の安打が決勝打となり、勝ちました。
新聞では、「夏のリベンジ」ともてはやさしましたが、本当の意味でのリベンジは、仲間のお陰なのです。

日本代表としてオリンピックに出場、日本代表監督だからさぞ輝かしい球暦があると思われがちですが意外にこの程度のものです。

しがない自叙伝となってしまいましたかね、なにかご参考になれば・・・。



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