今年は色々とあり過ぎ、逆に何をしてきたんだろうと考えてしまいます。
でもやはり、私の今年のトップは東アジア大会での優勝でしたね。
多くのドラフト選手と共に戦えた経験は本当に貴重なものでした。
因果か、バルセロナオリンピックの予選が行われた中国天津で開催されたことも印象深かさを増したと思います。
天津の街並みは、その当時の面影なんて全く感じさせない文明の発達ぶりでただただ驚愕。
20年あまりでこれだけの発展を遂げるとは、やはり中国恐るべしでした。
バルセロナオリンピック予選の時、勿論、当時は選手でしたが、北京から天津に到着するなり、油と水にあたり、極度の下痢の毎日に苦しみながら何とか出場権を獲得したことを今でも鮮明に覚えています。
守備から攻撃に移る合間にトイレに駆け込み、打席間際までトイレに居て、慌てて打席へという繰り返しでした。今で言う、完全な集団食中毒です。
ですが、オリンピックの予選で腹痛でオリンピックを逃すなんてことは許されることではないので皆必死でしたね。
人間なんとかなるもんですね!
このような経験により、私は世界を相手に戦うことにのめり込むことになったのですが。
天津の予選の思い出の一つに今でも鮮明に覚えていますが、山中監督との会話を今でも忘れることはありません。
予選を突破し、オリンピック出場を決めた日の夜に、今後の進路(プロに進む選手とアマに残ってオリンピックに挑む選手の二つに大きく分かれるため)を天津のホテルの監督部屋に呼ばれ、一人一人ヒアリングされました。
その時に年齢的にこのチームでは年長の方でしたし、先発メンバーとしてずっと試合に出場しているわけでもなかったので、
監督に話をされる前に自分から
「代表チームはオリンピックで金メダルを獲得することが命題と思います。私なんかよりももっと良い選手を入れて貰って結構です」
と切り出しました。
監督に話をされる前に自分から
「代表チームはオリンピックで金メダルを獲得することが命題と思います。私なんかよりももっと良い選手を入れて貰って結構です」
と切り出しました。
皆オリンピックに出たい一心で頑張っているのに自分の方からその道を譲る発言をするなど馬鹿げていると今では思いますが、その時はそう純粋に思いました。
それだけ監督から日本代表、日本代表選手の心得を教えられていた証ではないかと思います。
日の丸をセンターポールに掲げなければならないという使命感を強く持っていたので。
しかし、その進言に対しての山中監督の一言が本当に嬉しかった。
「お前はチームに欠かせない選手だ。試合に出る、出ないではない。チームを纏めろ」と。
とかく日本代表チームと聞けば、技術を第一に思われがちですが、どんなレベルであれ、チームスポーツはチームワークなんですよね。
それからは、ブルペン捕手、内野、外野を全部守りと自分にできることは全部やりました。
本当に良い経験となりました。
今年も終わりを迎えようとしているのに、なぜこのような内容を記載したのかはわかりませんが、来年も日本代表はこうあるべきとブレることなく、突き進まなければとの決意のあらわれと勝手に解釈しています。
侍プロジェクトが始まり、小久保JAPANの打撃コーチもやらせて頂きました。
野球界も大きく舵を切る年に来年はなると考えています。
我々アマ代表には、韓国仁川で行われるアジア大会が待っています。
少しでも野球界発展のために今後も頑張って行く所存ですので来年もよろしくお願い致します。
そう言えば、久々にまじまじと空を見上げました。
空が青く、誰かの歌ではないですが、未来があるように感じました。
苦しくなったら空を見上げてみようと改めて気付いた貴重な一日でした。
今年一年、ブログにお付き合い戴き、ありがとうございました。
皆さま、良いお年を!