2014年4月1日火曜日

「代打 俺」と「4番、俺」

「代打、俺」、ドラゴンズの谷繁監督が代打出場した際の新聞見出し。

これを見て、自分自身もそんなことあったなと久々思い出しました。

三菱重工長崎時代に30歳で選手兼任監督として3年(監督は専任2年を含めて5年)指揮を取りました。
当時の野球部長からの社命で、当時ラグビー選手兼監督として活躍していた「神戸製鋼の平尾氏のように上手くやれ」と言われ・・・。

ラグビーの監督はキャプテンのようなものですが、野球の監督はラグビー以上の仕事があります。

かと言って、肉体的には選手兼任はやれないことはありません。
が、精神的に非常に厳しいものがあり、打ち勝てるかが明暗につながります。

例えば、「右方向へ打ち返そう」と指示を出したが、自分の打席で結果的にそれができないというような事象がおきた時

こういう時に「監督は言っていることとやっていることが違う」というような類の想いを選手は持つもので、この見えない選手の眼という重圧に耐えながら指揮を取っていくのは並大抵の精神力では無理です。

また、監督の仕事はシーズン中になれば明日のメンバー、投手起用のローテーション、それからマスコミの対応、その他選手との対話など本当に多岐に渡ります。

試合の自分の準備と監督の仕事とこれは想像を超える大変さがあります。

私は、谷繁監督とは違い、内野手またはDHとして兼任プレーヤーに挑戦しましたが、1試合を終えると本当に疲れ果てていました。

東京ドームで行われた都市対抗野球では、ユニフォームが真っ黒な監督と野球関係者、報道の方に大笑いされていました。

泥臭くやることこそ唯一選手が認めてくれると当時は考えていたので必死でした。


ヤクルトスワローズで指揮をとった古田元監督も兼任監督の1人ですが、結局、前年のような自己の成績は出せず、チームも低迷し、結局、解任という結果になりました。

古田元監督も専任監督で勝負していたら結果は変わっていたかもしれません。

元来、捕手出身の監督は投手の交代も上手く、野球を冷静に見ることできることから監督として成功しているケースが多く見受けられます。

しかしながら、兼任監督で成功した例は、私が記憶している限り南海時代の野村監督以外いないのではと思います。

同じ兼任監督経験者として一度野村監督の腹の中を見てみたいものです。

あの図太さがなければ出来ないでしょうね(ご本人には叱られるかもしれませんが)。


「私自身はどうだったのか?」

兼任監督の経験はその後の監督専任となった2年間に大きな糧となりましたが、はっきり言って失敗だったと思っています。

都市対抗本大会で8強には入りましたが、兎に角、チームを冷静に見る余裕なんてありません。

谷繁監督とは違い、「4番、俺」という役どころで監督しての勝敗の責任と選手の要としての責任を果たす必要があり、この重圧は中々しんどいものがありました。

勿論、優秀なコーチが横に居てくれたので役割をシェアはしていましたが・・・。

それでも中途半端であったことは間違いなく、当時の選手には申し訳ないことをしたと今でも思っています。


谷繁監督が試合に出場しなくなり始めたらドラゴンズは危険信号に陥っていると思った方がいいでしょう。

兼任監督は出場するかどうかを自分で決めることができますので、自分の心のささやきとの勝負となります。

この葛藤に勝てなければ兼任監督は失敗すると言えるでしょう。

谷繁監督、どんな結果が出ようとも試合に出続けよ!

出場したり、出場しなかったりすると兼任監督は失敗します。

監督という職業を全うするのであれば、出場しながらやるか、専任するかの二つ。

中途半端は必ずほころびを生じます。


ドラゴンズの今年をある意味、注目しています!

頑張れ、谷繁ドラゴンズ!

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